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 郡中学校・校舎の変遷(移り変わり)    郡中学校のもくじページへ  
はじめに
2021年9月現在の郡中学校の敷地写真グーグルアースより
中央やや左側:校舎・体育館・武道場・プール・運動場・テニス場など
敷地上部は「国道34号線」、中央部やや右側の建物は「虹の原特別支援学校
 この「郡中学校・校舎の変遷(移り変わり)」ページには、校舎だけでなく、例えば専門教科の建物体育館プールなどの諸施設の写真も含めている。ただし、先の校舎や諸施設は、学校開校(創立)以来、何回となく建て替え、新築されてきた経過がある。あと、その時に航空写真(空中写真)や通常の写真含めて撮影され,、どこかに所蔵されていれば複写して、出来るだけ数多く掲載したいと考えている。

 しかし、残念ながら、その都度撮られた写真自体が、どこかに仮にあったとしても、全部まとまった状態で所蔵されていないようだ。そのため、校舎写真などが載っている書籍類などから複写して、なるべく多く掲載していきたいと考えている。どうか、気長に、ゆっくり待って頂きたい。

 なお、上野は、1952年生まれで郡中学校の卒業生、さらには地元の福重地区に在住しているので、開校後10数年間を除き、ほぼ、これらの校舎の移り変わりは見て来た。記憶曖昧なところもあるが、なるべき詳細に書きたい。。(初回掲載日:2022年1月28日)

 注:掲載当初は写真の順番は順不同である。ほぼ掲載終了段階で古い順番に並び替えたい。
 注:表内の色分けは見やすいようにしているだけで何の意味もない。
<写真1> 戦前からあった第三五二海軍航空隊(草薙部隊)の隊舎と敷地を開校当初は活用
 
1994年当時の第三五二海軍航空隊(草薙部隊)「航空隊」文字の左側部分が現・郡中学校の敷地「三五二空」敷地の上側道路が国道34号線、右下側方向に大村海軍航空隊。(出典:2015年度 大村市立史料館特別展の冊子「軍都」大村の歩みと市民~回顧1896ー1945~の6~7ページ掲載写真より。トリミングし、一部CG加工した)  現在の写真:左側写真と対比のため掲載
(グーグル)アースより
<写真1>の説明
 念のため、上記のモノクロ写真は、あくまでも戦前の撮影で終戦まであった
第三五二海軍航空隊(草薙部隊)の隊舎と敷地を写したものである。だから、郡中学校を撮影したものではない。(敷地説明は上記写真の説明文を参照) しかし、、なぜ、この写真を掲載しているかというと、それは、大村市立郡中学校1947(昭和22)年4月に開校した当初、この第三五二海軍航空隊の敷地と隊舎が、一部を除き、そのまま学校に使われたとの地域伝承があるからだ。

 つまり、上記写真の「三五二」の文字部分が運動場で、その左側が戦前は隊舎だったが、郡中学校開校当初は校舎(教室)に再利用されたということだ。学校の略年表を参照すれば、1952~1958(昭和27~28)年にかけて、第一次、第二次校舎新築完成の記録があるので、その間までは、元の隊舎を使っていたのであろう。あと、「運動場の整地や整備などは、地域の青年団や住民が一致協力して、広い面積を苦労しながら作業した」との話しが伝わっている。

 上記の左側と右側=現在写真と対比しても、校舎の向き、その敷地、あるいは、運動場部分は、大きく変わっていないことが分かる。むしろ、両写真の下部(現在の体育館、武道場、テニス場などが戦前や開校当初より大きく変わっている。蛇足ながら両写真の上部にある「国道34号線」の位置は変わっていないが、拡充整備されていることが対比して良く分かる)

<写真2> 1957(昭和32)年の航空写真
1957(昭和32)当時の郡中学校(航空写真) 中央部は2階建て本館校舎、右側4棟は平屋校舎
手前側の白く見える道路は国道34号線、奥の高いポプラ並木の奥側は、ほとんど畑で左奥側は現在テニス場。
<創立五十年記念誌より>
<写真2>の説明
 上記の写真説明文と重複するが、補足も含めて、箇条書きで書くと次の通りと思われる。
・撮影年:1957(昭和32)年
・校舎:中央部左側が鉄筋コンクリート2階建ての本館校舎。右側に(木造と思われる)平屋建ての校舎が4棟。この合計5棟の各中央部にあるのは渡り廊下の屋根など。 校舎周辺に3〜5棟程の外トイレが見える。
・運動場:この当時、既に野球かソフトボール用のバックネットが対角線上に2基ある。

・植栽:写真の上部(西側、海側)に横一列に高木が見えるが、これはポプラの木である。
・畑 :上記のポプラの木の奥上側で空き地みたいに見えているのは、学校の畑である。その左側はテニス場であろう。
・敷地:現在の体育館やプールの場所は、この写真では更地のようにも見えているが後年、両施設が建設された。
・敷地外:手前側で幅広い白線のように見えているのは国道34号線。戦前より整備され、現在とほぼ同じように見えている。。写真右側(北側)の道路は当時1車線で後年に2車線になった。

<写真3> 1966年頃の航空写真
注:上記写真の撮影は現時点では正確に不明ながら1966(昭和41)年11月竣工の真新しい体育館が写っているので、その頃と推測される。
運動場より手前側(最下部)に見えるのは推測ながら当時あった長崎県立建設大学校の校舎であろう。(現在、ここは「虹の原特別支援学校」に変わっている)
 <写真3>の説明
 上記の写真説明文と重複するが、補足も含めて、箇条書きで書くと、次の通りと思われる。なお、この写真原版は、ある個人からの提供で、それを上野がスキャナー複写して縮小版にしたものである。
・撮影年(推定):1966(昭和41)年
(11月か12月頃か?)
・校舎:校舎(教室)関係は<写真2>の説明文と同じなので、ここでは省略。ただし、撮影角度が違うため、中央部の本館校舎の左側(西側、海側)に写っている当時の名称で「技術科室?」が良く分かる。1966(昭和41)年11月竣工の真新しい体育館が写っているのが、この写真では最大の特徴点である。 なお、あまり年数を置かず後年に造られたプールが、まだないので、ある意味、この間隔時期としては貴重な写真と思われる。
・運動場:運動場関係も<写真2>の説明文と同じなので、ここでは省略。

・植栽:写真の左側(西側、海側)に縦一列の高木はポプラの木である。
・畑 :上記のポプラの木の左上側で空き地みたいに見えているのは、学校の畑か空き地ある。下部の方は4面のテニス場になっている。
・敷地:現在のプールの場所は、まだ更地(空き地)のように見える。この後年にプールができた。

・敷地外:運動場の手前側の建物は、推測ながら当時あった長崎県立建設大学校の校舎であろう。右側の幅広い白線のように見えているのは国道34号線。その上部には福重橋。その橋の右側には(当時)国鉄・大村線の鉄橋や線路がある。全体で、まだ農地が多く、現在の住宅や国道沿いの各種建物は、まだまだ建っていないのが良く分かる。
<写真4>
1973(昭和48)当時の郡中学校(航空写真)  上記<写真3>にモノクロで写る体育館の屋根がオレンジ色で鮮やかに見えている。
体育館の奥位置(上側)に現在は武道場があるが、この当時は当然まだ、ない。また、校舎が5棟である。(現在は3棟)

この写真は「大村市立郡中学校創立五十周年記念誌」(1995年11月29日発行、編集者:大村市立郡中学校創立五十周年記念実行委員会)から複写した。
 上記の写真説明文と重複するが、補足も含めて、箇条書きで書くと、次の通りと思われる。なお、このカラー写真の複写元は、「大村市立郡中学校創立五十周年記念誌(1995年11月29日発行、編集者:大村市立郡中学校創立五十周年記念実行委員会)」の口絵(写真)である。

・撮影年:1978(昭和48)年
・校舎:この当時、校舎5棟の説明は、上記の<写真3>と大きく変わっていないように思えるので、詳細説明は、上記を参照願いたい。ただし、撮影角度が違っているため、校舎の建て方や並びなどが、良く分かる写真である。あと、1966(昭和41)年11月竣工した体育館の屋根のオレンジ色が、まだまだ色鮮やかに見えている。体育館の奥側に現在、武道場
<2002(平成14)年2月10日落成式>がある。しかし、この当時は、畑か空き地のように見える。

プール:1971(昭和46)年8月20日に竣工したプール
(25mの7コース)が、体育館の左側に写っている。
・運動場:この当時も<写真3>と同じように見える。ただし、<写真3>に沢山に写っているポプラの木の列は、相当減っているようだ。

・敷地外:郡中学校の敷地の西側
(海側、上側)や東側(国道34号線側、手前側)は、まだ広い農地のままである。現在(本ページ最上部右側写真参照)、住宅地や建物に増えているいるので、この当時から風景が大きく様変わりしたように思える。あと、運動場の南側(左上部)に写っている建物や敷地は、推測ながら当時あった長崎県立建設大学校の校舎であろう。上記の<写真3>よりも校舎・運動場・敷地など分かりやすい。

<写真5>
1997(平成9)当時の郡中学校(航空写真)  運動場に上から順に祝50周年 郡中 1997の文字がある。紺色は人文字白文字はライン引き(石灰)で描いてある。
運動場上部(北側)の本館校舎は2015年に建て替えられたが、その前の旧校舎である。体育館の左側に現在、武道場があるが、この当時はマダなく、畑か空き地のようだ。

この写真は大村市立郡中学校創立五十周年記念の下敷きの写真から複写した。
 上記の写真説明文と重複するが、補足も含めて、箇条書きで書くと、次の通りと思われる。なお、このカラー写真の複写元は、「大村市立郡中学校創立五十周年記念の下敷きの写真(1997年11月29日の記念式典頃に学校から支給されたのではないか?)である。

・撮影年:(この写真の運動場の人文字による年数通り)1997年 (この人文字は当時の生徒が上下紺色の体操服を着て写っているのではないだろうか?)
・校舎:この当時、<写真4>の5棟に比べ、校舎3棟になっている。この撮影年の以前に、北側(写真上部)の校舎全部が3階建てに改築されたからであろう。体育館の屋根の色が、<写真4>ではオレンジ色だったが、この撮影当時は緑色か青色系に変わっている。体育館の左側(西側=海側)に現在、武道場
<2002(平成14)年2月10日落成式>がある。しかし、この当時は、まだ畑か空き地のように見える。

・プール:今までの航空写真の中で1971(昭和46)年8月20日に竣工したプール(25mの7コース)が、一番良く分かる写真である。
・運動場:この当時も<写真4>と同じように見える。ただし、<写真3>に沢山に写っているポプラの木はなくなったのかもしれない。

・敷地外:郡中学校敷地の東西側(写真の左右側)は、以前の航空写真では農地や空き地が大きく広がっていた。しかし、この1997年の少し前から住宅地や各建物が増えていっている状況が良く分かる。あと、運動場の南側(写真下部)に写っている建物や敷地は、推測ながら当時あった長崎県立建設大学校の校舎であろう。この大学校の校舎の並びなどが、良く分かる写真である。

<写真6>6>
2017(平成29)当時の郡中学校(航空写真)。 運動場に沢山の生徒やテントが写っているので体育大会当日であろう。
また、この写真の原版はカラー版であろうが、下記の冊子がモノクロ印刷のため、白黒写真になっているのでは?

この写真は大村市立郡中学校創立七十周年記念誌の21ページから複写した。-
 上記の写真説明文と重複するが、補足も含めて、箇条書きで書くと、次の通りと思われる。なお、このモノクロ写真の複写元は、「大村市立郡中学校創立七十周年記念誌(2017年10月吉日発行)21ページからである。

撮影年:
(七十周年記念事業時の撮影なので)2017年の9月頃か? 運動場に沢山の生徒や、その周囲にテントなどが写っているので体育大会の当日の撮影であろう。また、写真左上部にあるプールや武道場の周囲の駐車場も車が一杯で、これは体育大会を見学にきた保護者の自家用車と思われる。 あと、運動場のトラックの南側(写真では最下部)は、運動場や敷地の一部が切れた状態と思われる。もしも、切れてなければ、もっと生徒やテントも写っていたであろう)

・校舎関係の特徴では、運動場の北部(写真では上部)に、白く真新しく見えているのが、2015年に完成した本館校舎である。また、「写真5」の建物とと大きく違うのは、体育館の西側(左側、大村湾側)武道場が写っている点である。この武道場の完成は、2002(平成14)年2月10日落成式だったので、本ページ(航空写真集)では、初登場の建物でもある。それ以外の校舎、体育館、運動場や学校敷地内は、先の「写真5」と大きくは変わっていないと思われるで、上記を参照願いたい。

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補足
 


・関係ページ:「第三五二海軍航空隊(草薙部隊)

初回掲載日:2022年1月29日、第二次掲載日:1月31日、第三次掲載日:2月4日、第四次掲載日:2月16日
第五次掲載日:2月20日、第六次掲載日:6月21日

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