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大村の歴史
郷土の力士、玉ノ海梅吉

郷土の力士、玉ノ海梅吉(2009年11月13日、顕彰 玉の海梅吉生誕記念碑除幕式)
 
全国的に2009年11月13日10時30分から11時40分まで大村市幸町にあるシーハット大村・教育文化棟の横に『顕彰 玉ノ海梅吉生誕記念碑』の除幕式が挙行されました。この胸像の制作者は、大村市内在住の藤原健太郎氏です。この取材に行った時に『顕彰 玉ノ海梅吉生誕記念』という冊子(A4サイズ、カラー)を頂きました。

顕彰 玉ノ海梅吉生誕記念碑
制作者:藤原健太郎 氏
胸像部分のサイズ:高さ720mm×幅620mm×奥行500mm、材質:ブロンズ
除幕式

 この中に大村の郷土が生んだ名力士でNHK大相撲の名解説者でもあった玉ノ海梅吉氏の経歴、記念碑建立に寄せられた祝辞、特別企画座談会、郷土の力士紹介、その他などが詳細に書かれていました。今回この冊子を引用、参照して書いています。

玉ノ海梅吉の主な略歴
1912(大正元)年11月30日、大村市(西大村、新城)に誕生。
1925(大正14)年3月、西大村尋常高等小学校を卒業。
1930(昭和5)年10月場所、玉ノ海の四股名(しこな)で二所ノ関部屋に入門、初土俵。
1934(昭和9)年5月場所、十両昇進。
1937(昭和12)年5月場所、小結昇進。
1938(昭和13)年1月場所、関脇。
1938(昭和13)年12月に、二所ノ関の玉錦の急死より急遽年寄二所ノ関を二枚鑑札で継承。
1939(昭和14)年1月に、横綱・双葉山を破る。
1945(昭和20)年11月場所を最後に引退。
1951(昭和26)年5月、部屋を譲って相撲界から引退・廃業。
1955(昭和30)年5月、NHK相撲解説者に就任。
1966(昭和41)年3月、NHK放送文化賞受賞。
1982(昭和57)年11月、NHK撲解説者引退。
1988(昭和63)年10月23日、75歳で死去。

玉ノ海梅吉の生涯成績など

幕内在位:23場所          最高位:関脇
幕内成績:141勝101敗1分51休  勝率:0.583
得意手:突っ張り、右四つ、下手捻り
身長:176cm、体重:109kg

記念碑の碑文
 『顕彰 玉の海梅吉生誕地記念碑』の裏側に玉ノ海の生い立ちから力士やNHK解説者時代の功績が記されています。大変分かりやすい文章でしたので下記に、その全文を紹介いたします。

玉ノ海梅吉関
 大正元年11月30日、大村湾に面した漁村新城(現・大村市杭出津1丁目)にひときわ大きな赤ん坊の誕生があった。その名は陰平梅吉。小学校の頃より飛び抜けて大きく、家業の漁業を手伝う親孝行息子でもあった。

 やがてその体格は相撲界の目に留まり、17歳で大相撲二所ノ関部屋に入門、昭和5年10月に初土俵、右で前みつをつかんだら天下無双の怪力を発揮、その怪力によって昭和9年5月には十両、翌年には入幕と快進撃の出世振り、最高位は関脇をつとめた。 昭和13年、26歳の小結・玉ノ悔に転機がおとづれる。

 部屋の内外から推されて年寄・二所ノ関を襲名し、二枚観礼で力士百人を超す部屋の運営と士:俵とをつとめることとなった。関取昇進者は後進を育威する義務があるとの一念から、部屋の分離独立を寛大に認めるなど、画期的な部屋運営であった。これが後の二所一門隆盛の布石となった。

 昭和20年11月場所を限りに引退、同26年廃業、昭和30年からはNHK大相撲放送解説者と,して、人情あふれる名解説は実に27年間に及び、幅広い人々から親しまれた。その間には親友・時津風埋事長(双葉山)に、「部屋総当たり制」を進言し、実現させた。昭和41年には永年の大相撲解説の功労により、NHK放送文化賞を受賞した。

 大材の母校に土俵を寄付するなど郷土愛も深かった.昭和63年、惜しまれつつ75歳の生涯を閉じた.生誕百年を目前にして、今改めて玉ノ海関を慕う声が挙がり、氏の胸像を建立し、撰文をしたためて顕彰するものである.。

平成21年11月古日 玉ノ海梅吉生誕地の碑建立実行委員会

記念碑の胸像制作者・藤原健太郎氏と玉ノ海梅吉像制作によせて
 『顕彰 玉の海梅吉生誕記念』という冊子には、この玉ノ海の胸像制作者の藤原氏の略歴と『玉ノ海梅吉像制作によせて』と言う祝辞が掲載されていますので、下記に引用してご紹介します。

顕彰 玉の海梅吉生誕記念碑
制作者:藤原健太郎 氏

藤原健太郎 氏(ブロンズ像制作者)
・1974(昭和49)年大村市生まれ
・東彼杵町立彼杵中学校教諭
・現在、日展会友・出品委嘱、日本彫刻会 会員 、 長崎県美術協会評議員、長崎県展審査員
・主な受賞歴 日展…1997年以降、12年連続入選(特選、 無鑑査出品も含む) 長崎県展…1997年県知事賞、西望平和賞受賞

玉ノ海梅吉像制作によせて
 玉ノ海梅吉像の制作にあたり、まずは、玉ノ海さんご自身の著書や評伝の読み込 みから始めました。それは、怪力玉ノ海と呼ばれた関取時代の写真に見られる外見上の真実を、ただ作品として写し取るのではなく、玉ノ海さんが関取、二枚鑑札、そして相撲解説者として相撲を通して生きた生涯における内面や意思の真実を知 り、それも含めて関取の姿に込めたいという思いからでした。

 国技である相撲に対するひたむきさや誠実さ、そして美を求める心、相撲を志す者への愛情や優しさ、相撲を通して人の生き方を深く見つめることのできる知性など玉ノ海さんの魅力に触れ、現代に生きる私たちが忘れがちになっているものを実感させられるとともに、これこそ彫刻を通して表現しなければならないものであると確信しました。

 残念ながら、実際に玉ノ海さんにお会いすることは叶いませんが、徐々に作品となってくる玉ノ海さんと対話しながらの約3ヶ月半の制作期間は、生きる道を見つめることのできたとても貴重な時間となりました。

 この作品の設置により、大村からこのような相撲を愛した偉大な方が誕生していることを多くの人に知っていただき、さらにこの作品から何かを感じとっていただければ幸いです。最後に、地元大村に貢献できる場を与えていただいた発起人、及び実行委員、並 びにご寄付をいただきました皆様、その他、関係者の皆様に深く感謝申し上げます。

以上が制作者の略歴と祝辞でした。

補足(私の感想など)
 私(福重ホームページ管理人の上野)は、戦後生まれのため玉ノ海関が現役力士として活躍しておられる時代は知りません。ただ、私の子どもの頃から親や親戚などの話しで玉ノ海関が話題になると必ず(大村弁で)「怪力で強かったとバイ」、「大村の新城の出身やった。海(舟)で足腰を鍛えたけんが力が強かったげな」と、何回となく聞かされていました。私も子どもながら、「へー、大村出身で、そんな強い力士がいたんだなあ」と思っていました。

 あと、力士時代よりも私のような戦後生まれ世代は、どちらかと言いますと、夕方NHKの大相撲放送で「向う正面の相撲解説は玉ノ海さんです」みたいな紹介で始まる時にテレビ画面に写し出されるご本人の姿は、数多く見たのではないでしょうか。ただ、その当時(解説者の引退)から換算しても30年近くも経つので具体的に話された内容までは覚えていません。

 しかし、今なお独特の語り口だったことは、印象深く残っています。聞きようによっては、けっこう厳しい指摘もされていましたが、やはり現役力士に対して優しい心を持っておられたと想像しています。自分が力士、親方と苦労されてこられたので、後輩に叱咤激励の意味もあったのではないでしょうか。

 玉海梅吉の胸像はカメラ撮影の関係もあり、私も見ました。私は、彫像などは全くの素人ですので制作者の意図と違うことを書いているかもしれませんが、現役力士時代、怪力と呼ばれた腕っ節の強いことを思い浮かべるような筋肉隆々の体格がよく表現されています。そして、力士だけではありませんがスポーツ選手に最も必要と思われる均整(バランス感覚や腰を基点に動きやすい体つきなど)のとれた体全体を内面から想像させるような仕上がりに思えました。

 また、上記に紹介しました『玉ノ海梅吉像制作によせて』の文章で「・・・人の生き方を深く見つめることのできる知性など玉ノ海さんの魅力に触れ、現代に生きる私たちが忘れがちになっているものを実感させられるとともに、これこそ彫刻を通して表現しなければならないものであると確信しました」の言葉でもお分かりの通り、この像の制作に当たってひたむきな姿勢が私のような素人にも伝わるものでした。

 このような彫像の制作者が大村出身と言うことは、玉ノ海関の功績に負けるとも劣らないことではないでしょうか。今後ますますのご活躍を祈念するものです。福重ホームページ閲覧者の皆様、大村市役所あるいはシーハット大村をご存知の方なら、この玉ノ海関の記念碑は直ぐに分かる所にあります。大村に来られる機会があれば、ご覧いただければどうでしょうか。

(初回掲
載日:2009年11月17日、第二次掲載日:2009年11月21日、第三次掲載日:2009年11月23日)

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