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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など   福重空襲 
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(写真A) 大村市今富町〜皆同町、福重飛行場、(左側は史跡説明板)現在は滑走路左端側の幅2.6m農道のみだが当時は幅が30m、長さ950mだった。今富町は福重飛行場、福重(今富)砲台、防空壕の飛行機部品倉庫や工場があったので空襲犠牲者や罹災が多かった)
福重空襲-----小学校の児童(9歳)まで射殺された

福重空襲の概要(注:この項目は箇条書きの概要のみで詳細は後の項目を参照)
 ・名称:(大村市福重地区)福重空襲(ふくしげ くうしゅう)
 ・年月日:1944(昭和19)年〜1945(昭和20)年の終戦まで何回もあった
 ・場所:大村市福重地区=全10町の内、少なくても7町で発生した
 ・犠牲者:福重国民学校(小学校)児童1名(氏名も死亡年月日も判明)含め合計11名(ただし2010年調査時)
     さらに2020年8月に「福重(今富)砲台の空襲で軍人の多くが亡くなった」との情報があった。(現在、犠牲者数を調査中)

 ・罹災:民家41戸が全焼(戦災概況図参照)、あと福重国民学校(小学校)も平屋校舎が極一部損壊(ただし授業は続いた)

 ・犠牲者や罹災者が多かった理由:戦闘迎撃部隊の「第三五二海軍航空隊」(草薙部隊)を始め、福重飛行場、福重(今富)砲台、皆同砲台、野田機銃台、第21航空廠(航空機製造工場)の疎開工場・倉庫、各兵舎(三角兵舎)などが、福重地区にあったため、幾度となくアメリカ軍機が空襲をおこなった。

 ・戦災死者(空襲犠牲者)の氏名:今富町の大神宮境内にある福重村招魂碑横の「殉国慰霊顕彰碑」に軍人の戦死者とともに「戦災死者(空襲での犠牲者)名も彫ってある。ただし、この氏名は日本人の福重地区在住者のみで地区外の軍人や外国籍の犠牲者は入っていない。

(写真B) 福重砲台(今富砲台)跡(西側)
(地下の施設に入る場所と推測される)
福重空襲は何故、被害が大きかったのか
 福重地区は、大村8地区あるなかで面積では3番目に広いのですが、戦前当時の人口は3,000人もいないような農業(農村)地域でした。そのような場所で、何故、空襲被害は大きかったのでしょうか? 

 その答えを書く前に大村市内でも、特に、西大村地区・竹松地区・萱瀬地区なども空襲の多かった地域です。それらの地域にあって共通した事項は、主に、第21航空廠(航空機製造工場)と、その疎開工場など、また、大村海軍航空隊(飛行場)や高角砲台(高射砲陣地)などの軍事施設が多くあったからと思われます。

 そして、それらと重複しますが、福重地区には、下記(1)〜(7)事項の軍事施設と、その関連諸施設が多数ありました。<注:下記の町名は現在の町名称>
 ・「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」ページも参照願う。

 <福重地区内にあった軍事施設関係と、その町名>
 (1) 第三五二海軍航空隊(「草薙部隊」、戦闘迎撃部隊)------沖田町
 (2) 福重飛行場(薄いコンクリート舗装の滑走路で長さ950m×幅30m)---今富町・皆同町
 (3) 福重砲台(「今富砲台」、高射砲陣地)------------------今富町
 (4) 皆同砲台(高射砲陣地)-------------------------------皆同町
 (5) 野田機銃台----------------------------------------野田町
 (6) 航空関連諸施設(21航空廠関係、兵舎など)-------------主に今富町など
 (7) 高圧電線と鉄塔など---------------------------------主に野田町、立福寺町など

(写真C) 福重飛行場
(滑走路は長さ950m×幅30m)
・空襲に遭った町と軍事施設との関係
 <上記(1) 〜(7)で一部は、既に詳細に書いている事項もありますので、先のリンク先から参照願います>

 福重地区内10町ある中で、空襲による民間人犠牲者数が最も多かったのが皆同町です。その次が今富町(軍人の死亡数は現在調査中で、もしも判明すれば一番多い町内かもしれない)です。また、空襲による罹災戸数(全焼など)で一番多かった町は沖田町で10戸、次に今富町の9戸です。(注:それ以外の犠牲者数や罹災戸数などは、後の項目に全体まとめて詳細に書く予定)

 先に述べました犠牲者数罹災戸数が多かった町は、やはり、上記「(1)〜(7)項目の軍事施設や、その関係施設が多くあったから」と思われます。そのことをアメリカ軍は、空中撮影や様々な情報から知り、かなり正確に爆弾、焼夷弾さらには戦闘機の機銃などによって空襲(攻撃)をしていることが分かります。逆に、軍事施設がなかった3町には、空襲は全くなかったようです。

 なお、「(7) 高圧電線と鉄塔など」については、異説もあり、真偽定かではないのですが、地元では「(高圧電線や鉄塔の空襲について) アメリカ軍のレーダーは電気の高圧線に反応するため、そこが狙われたのではないか?」との説を述べられた方も多かったです。

 あと、高圧電線は、「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」上の「爆弾または焼夷弾」の落下地点のライン(立福寺町〜野田町)もありますので、高圧電線沿いをアメリカ軍機が狙っていた可能性もあると思われます。高圧電線や、その鉄塔のあった立福寺町〜野田町には、一部を除き軍事施設は、あまりなかった町なのに空襲に遭っています。

 そして、ここからは上野の補足ながら、その空襲の結果、高圧電線が切れたり、鉄塔が倒れたりすれば、航空機を始め軍需物資全般の製造・生産が難しくなっていくことも先の理由になり得ます。つまり、電気(電力)は、当時も現在もライフラインであるばかりではなく、工場生産で最も必要なエネルギーの一つで、そこをアメリカ軍機は狙っていたことも考えられるでしょう。

空襲犠牲者について
 まず、福重地区の空襲による犠牲者数についてです。当初、2010年の福重郷土史同好会・定例会(毎年、数回開催)で、それまで数年かけて各町の被害状況を調べていました。そのまとめた犠牲者数(地区住民だけでなく軍人や他国籍の人含む)は、合計11名でした。ところが、今年(2020年)8月下旬に、新たな情報として、「今富郷(町)にあった福重砲台で空襲に遭い、大勢の軍人が亡くなった(軍人の死亡数は現在調査中ながら、相当大勢の方が亡くなっている)との情報が寄せられました。

(写真D) 福重砲台(今富砲台)跡
(地下の施設に入る場所と推測される) 注:現在はない。
 そのことを詳細に述べる前に上野は、福重地区の空襲被害状況含めて、戦後75周年の企画として、2020年7月15日付けで、第21航空廠(航空機製造工場)の空襲被害を除く「大村空襲」の冊子を発行しました。その後の同年8月12日、大村市陰平町の「(釜川内)空襲柿の木」紹介文も公表いたしました。すると、この「大村空襲」冊子と、「空襲柿の木」のことが、ケーブルテレビで8月14日から(再放送含めて)放送され、また、長崎新聞の8月18日に大きな記事として報道もして頂きました。

 先の新聞記事を見られた西海町の方から、「福重砲台(今富砲台)」(高射砲陣地、高角防空砲台)で軍務についておられた時の情報が届けられました。それによりますと、「(昭和20年の)田植えの頃、アメリカ軍機から福重砲台全体が空襲に遭い、大勢の犠牲者がでた。その数は覚えていないが、軍用トラックに(簡易型の)棺桶がいっぱい並んでいた。そして、火葬場に運ばれた」との内容でした。

 あと、この空襲年月日は、私の方で調べたところ、当時の福重国民学校(小学校)の児童(9歳)が米軍機による射殺があったり、また同町の帯取の民家や小屋が全焼した場所は、同じ今富町の帯取です。つまり、いずれも空襲の年月日は、同じと思われ、それは、1995(昭和20)年7月5日です。

 この帯取での空襲年月日は、先に書きました児童の墓碑(戒名塔)に彫ってありましたので判明いたしました。なお、この日は、鈴田地区、陰平町「釜川内空襲」があった同じ日でもあります。

<各町別の犠牲者数と、その状況>
 下記の表作成にあたって、主に(福重村)招魂碑、殉国慰霊顕彰碑の「戦災死(注:空襲での犠牲者のこと)の氏名、2010年以前の福重郷土史同好会による各町の聞き取り調査と当時の例会でのまとめからです。ただし、2020年8月に新たに西海市に在住の人から情報提供がありました。この方は、戦前、福重砲台(今富砲台)で軍務に就いておられ、その時「軍人が空襲で大勢亡くなった」との報告がありました。この件は、もっと調査と精査して、その状況を後で追加し、改訂していきたいと考えています。

(写真E) 皆同砲台跡
(写真F) 福重村の招魂碑殉国慰霊顕彰碑
 
 (写真G) 殉国慰霊顕彰碑の表面
(裏面に戦災死=空襲犠牲者の氏名もある)
 そのようなことから、下表は、あくまでも2010年の福重郷土史同好会・定例会当時の資料をもとにしていることは、あらかじめ、ご了承願います。なお、町名は当時「郷」(町)でありましたが、全て現在の町名で書いています。
福重地区、各町別の空襲犠牲者数    
町名
 住民
(注A) 
 住民外
(注B) 
 軍人 
(注C) 
 皆同町 -  9
 今富町 (調査中)  1
 弥勒寺町 - -  1
  計 11
((上表は2010年の福重郷土史同好会・定例会の資料より)
 ・
(注A)の「住民」とは、日本人で福重地区(旧・福重村)の住民である。
 ・
(注B)の「住民外」とは、現在の「韓国・北朝鮮」の方で徴用され作業員で来ていた人と思われる。
 ・(注C)の「軍人」とは、軍務で福重に来ていて犠牲になられた軍人である。

 ・(調査中)の部分は、全員、福重砲台(今富砲台で軍務中、空襲に遭い戦死された軍人で大勢だったようだ。

・空襲犠牲者の状況
(1) 今富町では福重小学校、9歳の児童まで射殺

 上表の犠牲者「今富町、1名」は、当時の福重国民学校(福重小学校)の9歳の児童が、福重砲台(今富砲台)周辺=帯取の丘で逃げ遅れ、1945(昭和20)年7月5日にアメリカ軍機の機銃によって射殺された。あと、1か月少しで終戦という時期の痛ましい出来事だった。

 なお、地元証言によると、アメリカ軍機は、低空で侵入し銃撃したのだが、その高度からして地上から「パイロットの顔が見えたくらいだ」と言うことだった。逆に言えば、パイロットからも地上が良く見えていて、大人子供の識別くらいはできたのではないか。そのような状況下、9歳の児童は撃ち殺された。

 あと、私達は、この今富町、帯取の丘での空襲は、先に述べた犠牲者だけと(2010年当時)思っていた。しかし、2020年8月に西海市に在住の方から、「軍人が空襲によって大勢死亡した」との情報が寄せられ、現在その調査中である。

(2) 皆同町の防空壕では11名生き埋め、内9名が死亡

 (この標題の空襲年月日は調査中)  皆同町は、今富城跡の丘を除けば、全体に平地ばかりの所である。そのようなことから、今富城跡があった丘には、皆同砲台や福重地区内では、やや大きい防空壕があった。ここの上部周辺に爆弾が落ち、まるで地震みたいに揺れたたためか、防空壕上部が落盤した。そして、当時、空襲警報で防空壕に避難していた11名が生き埋めになった。その内3名は助け出されたが、残り9名が犠牲となった。福重村の招魂碑・殉国慰霊顕彰碑に、この時の死亡者と思われるMさん3名と、外3名の名前が彫ってある。残りの3人は現在の「韓国・北朝鮮」の方と思われる。

(3) 弥勒寺町では、軍人1名が死亡
 この件は、空襲とは全く別の仏像調査時に、偶然にも家人から聞いたことです。それは、「弥勒寺町では軍人1名が空襲時、逃げ遅れて銃撃され死亡した」ということです。その当時、軍人の死亡は、軍事機密扱いだったのか、公にはいわれず長年埋もれていた内容でした。

・現在も空襲犠牲者数は調査中
 上表の通り、2010年当時の調べでは、犠牲者数11名でした。しかし、既に先に書きました通り、今富町、福重砲台(今富砲台)での軍人多数が犠牲になられたことの証言があったので、その人数を現在も調査中です。そのようなこともあり、今後「今富町の犠牲者数」は、変わってきます。

空襲罹災(火災)戸数について
 まず、この福重地区の空襲罹災(火災・損壊など)は、、地元証言も含めて2010年にまとめた福重郷土史同好会調べや、国の資料である全国主要都市戦災概況図・大村市の概要図<1945(昭和20)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、当時の第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成。原図サイズは55cm×40cm>などをもとにしています。なお、この資料は、以降「国の資料」と省略して書いている場合もあります。

(写真H) 1994年当時の三五二海軍航空隊(草薙部隊)
文字の左側は隊舎(現在の大村市立郡中学校の敷地、沖田町)
(出典:2015年度 大村市立史料館特別展の冊子「軍都」大村の歩みと市民
〜回顧1896ー1945〜の6〜7ページ掲載写真より。トリミングし、一部CG加工した)
 念のため、あくまでも下記の「(罹災戸数の)数値は2010年、福重郷土史同好会がまとめた当時」であることは、あたかじめ、ご了承願います。後で、新たに判明した罹災などについては、今後、追加、補足していきます。また、2010年の福重郷土史同好会調べや、上野が2020年7月15日に発行した冊子「大村空襲」には、各町別の氏名も書いています。しかし、今回ホームページ用にイニシャルに変えて、掲載しています。

 なお、下記の(1)〜(7)の町名は、当時、例えば沖田郷(現在は沖田町)、今富郷(前同、今富町)というように全て地名の後は「郷」でした。( )内の町名は、現行(現在)です。また、例えば沖田町のところにある「上河原」「金屋」などの地名は、同町内にある集落名(町の行政では現在ならば「・・班」とか「・・組」とも呼ばれている)です。

(1) 沖田郷(沖田町)---<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)沖田郷=16戸
 ・上河原----(当時の推定戸数9戸) 焼夷弾で2戸罹災。
 ・金屋------(当時の推定戸数10戸) 爆弾により1戸罹災、1人負傷。
 ・桑原------(当時の推定戸数15戸) 焼夷弾で6戸罹災。爆弾が沢山落ち、池のような水溜りができた。
 ・下沖田----(当時の推定戸数8戸) 爆弾で1戸、小屋が一部損壊。
 沖田郷全体(当時の推定戸数42戸あった中で)16戸の被災は大きい。とにかく沖田には爆弾、焼夷弾が沢山落ちた。爆弾だけで10発位が落ちたと思う。

 ・上空から分からないように傾斜型の屋根に飛行機を隠した建物もいくつかあった。
 ・被害が出たため、住める状況でない、あるいは更なる空襲から逃れるために疎開もした。(実例として、1945年5月頃から終戦まで武留路の知り合いの土地に小屋を建て住んでいた。しかし、農地は耕作しなければならないので武留路から毎日のように沖田へ通って作っていた。また、当時は自家用車なども当然なく、家財や農機具その他は大八車で引いて運んでいた)

 以上のように、沖田郷(町)全体で、「国の資料」の罹災戸数は16件になっている。この数字と、今回の調査報告数字と若干の差があるが、ほぼ正確な数値に近いと思われる。いずれにしても沖田郷(沖田町)は、福重地区で最も被害件数が多かった所である。その原因は、『三五二海軍航空隊(草薙部隊)』(現在の郡中学校の敷地)が、沖田郷に設置されていたので、この海軍施設に対する爆弾・焼夷弾攻撃が激しかったためと思われる。

(2) 寿古郷(寿古町)---<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)寿古郷=2戸
 ・1944(昭和19)年11月21日、Mさん宅が罹災。
 ・1945(昭和20)年4月、Tさん宅の小屋が罹災。

(写真I) 福重小学校跡 滑走路の一部から写真中央部と上部、さらに写真左側で白く写る道路近くまで) (右端側が郡川、白く見える道路の左側に福重出張所=元・福重村役場も写っている)
(3) 皆同郷(皆同町)---<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)皆同郷=6戸
 ・福重国民学校(小学校)敷地に爆弾が落ち平屋校舎の一部が損壊した。しかし、本館校舎(校舎の古写真は「1)1941(昭和16)年当時『国民学校』の写真」を参照)は無事だったので、その後も授業は行われたという。あと、ご参考までに、空襲について長崎県サイトの「各市町の被害状況」ページや、大村市の記録類には、「 (前略) 竹松・福重・桜馬場の国民学校が消失する (後略) 」などと大間違いが、今でも掲載されている。

しかし、福重国民学校は「消失」したので移転したのではなく、この学校敷地内に福重飛行場(写真H参照)ができたので止むを得ず現在地(当時の矢上郷=現・福重町)に引っ越したのが、正確な理由である。また、「桜馬場国民学校」という小学校は、元々、学校それ自体が存在もしなかったので当然、空襲によって「消失」する訳がない。

 ・1944(昭和19)年11月21日、Kさん宅、Aさん宅、Nさん宅、Mさん宅が罹災。
 ・Mさん宅、消防詰所が罹災。 
 ・Tさん宅が罹災。

(4)弥勒寺郷(弥勒寺町) <「国の資料」:罹災戸数(小破以上)弥勒寺郷=3戸
 ・Tさん、Yさん宅が罹災。
 ・Yさん宅では爆弾が落ち兵隊1名が死亡したが、当時、機密で公表されていなかった。

(写真J) 中央部;黄金山古墳跡(この手前側周辺に「福重砲台の電探または無線設備が工事中だった」と言う)
(5) 今富郷(今富町)<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)今富郷=9戸
 ・帯取では1945(昭和20)年7月5日、福重国民学校(小学校)の児童が機銃掃射で亡くなった。この時、福重砲台(今富砲台)周辺も被害があった。近くの民家のAさん宅や小屋も罹災。(和牛も焼け死んだという)
 ・段では、Mさん宅、Yさん宅、Hさん宅、Tさん宅が罹災。
 ・冷泉寺では、Kさん宅と、Kさん宅が罹災。

(6) 立福寺郷(立福寺町)
 ・佐奈河内川の田んぼに爆弾数個落下。大きな穴があき、いくつか池みたいになっていた。(立福寺町は当時も現在も高圧電線と、その鉄塔がある。また佐奈河内川近くには平積みで軍の物資が置いてあったという)

(7) 野田郷(野田町)
 ・Mさん宅が罹災。
 ・野田郷の墓(I家の墓近く)に爆弾落下し、丸い穴ができた。
 ・本蔵(佐奈河内川方向の)にあった田んぼと溜め池に爆弾落下し、溜め池二つが破壊。
 ・赤似田堤近くの(現在、笠山林道入口記念碑周辺)に焼夷弾落下、林が一部燃えた。


・沖田郷(沖田町)、第三五二海軍航空隊(草薙部隊)と空襲
 この沖田郷(町)での空襲最大要因であった第三五二海軍航空隊(略称「三五二空」、「草薙部隊」ともいう)のことを、まず詳細に書くべきことだが、本ページ内容は、空襲被害が主なので、簡単に触れておきたい。(いずれ、三五二空(草薙部隊)については、軍施設の単独紹介ページを作成予定である)

(写真H) 1994年当時の三五二海軍航空隊(草薙部隊)
文字の左側は隊舎(現在の大村市立郡中学校の敷地、沖田町)
(出典:2015年度 大村市立史料館特別展の冊子「軍都」大村の歩みと市民
〜回顧1896ー1945〜の6〜7ページ掲載写真より。トリミングし、一部CG加工した)
 この「三五二空(草薙部隊)」は、大村市立史料館発行(冊子)<「軍都」大村の歩みと市民>6ページによれば「1944(昭和19)年」に編成されたと記述してある。そして、当初主には、北九州に沢山あった軍需工場などを攻撃(空襲)してくるアメリカ軍の爆撃機(B29など)や、その護衛の戦闘機などへ、大村から発進した戦闘機から迎撃する任務があったといわれている。

 つまり、当時、制空権を得て、さらには圧倒的な航空戦力を持っていたアメリカ軍機にとって、その脅威の大小は別としても「三五二空(草薙部隊)」に迎撃されれば、危険な存在だったのには変わりなかった。

 さらに、アメリカ軍機は、大村にあった「第21航空廠」(航空機製造工場)、大村海軍航空隊(基地や草地の飛行場など)福重飛行場や各地の砲台などを空襲する時にも、先と同様であった。そのため、(写真H)に写っている「草薙部隊」の隊舎(説明文字の左側に8棟強ある建物や、その隊舎右側方向=戦闘機駐機場と推測される敷地、さらにその右側周辺)や、沖田郷(町)の広範囲が何回も空襲を受けた。また、先の説明文字周辺の竹松地区になる宮小路全域、さらには郡川左岸周辺とか、広い面積で空襲を受けた。

 この沖田郷(町)の被害は、幸いにも犠牲者は出なかったようだが、前の項目「空襲罹災(火災)戸数」の「 (1) 沖田郷(沖田町)---<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)沖田郷=16戸>」にも書いた通り、福重地区では最大の空襲罹災数となった。(当時の戸数の4割近く被害に遭った)

(写真C) 福重飛行場
(滑走路は長さ950m×幅30m)
今富郷(今富町)、福重(今富)砲台、21航空廠の疎開工場、沢山の防空壕や空襲
 戦争当時、この今富郷(今富町)には、様々な軍事施設があった。その一例として、一番大きかった福重飛行場(薄いコンクリート舗装の滑走路で長さ950m×幅30m)を始め、福重砲台(今富砲台)<大まか言えば縦横(直径)約200m四方の敷地に銃座・無線・兵舎・指揮所・弾薬庫などが沢山点在していた>第21航空廠関係の隧道(ずいどう)=防空壕(ぼうくうごう)(疎開工場・倉庫・指揮所などが10箇所以上)、さらには三角兵舎もいくつかあった。

 なぜ、今富郷(町)に、このような軍事施設が多かったと言いますと、それは、この町の地形と関係していると思われる。なぜなら、町全体に平野部が広いため飛行場や三角兵舎などが造りやすかった。さらに平地の道路横に尾根形状(丘陵部)の場所が主に四か所あったので、そこに隧道=防空壕が掘りやすかったとも思える。上野調べながら、この隧道(防空壕)は、疎開工場か倉庫用にするために民家(家族)用に比べると大きい造り(高さ2m強、幅4m位)だった。しかも、数も多く、合計で10数か所あった。

 そのような軍事施設が多くあった今富郷(町)をアメリカ軍機は、狙って攻撃(空襲)をかけてきたものと推測される。そのため、福重砲台(今富砲台)の空襲時、沢山の軍人が犠牲(犠牲者数は現在調査中)になったこと、さらには、福重国民学校(小学校)の児童が機銃掃射で亡くなったことは、既に書いた通りである。

 そのようなことと併せて、先の罹災の項目では<「国の資料」:罹災戸数(小破以上)今富郷=9戸>と書いている。しかし、この数字は、あくまでも民家のみであって、例えば海軍の隊舎や諸施設までの罹災も含めれば、先の「9戸」以上の建物被害があったと考えられる。

 いずれにしても、今富郷(町)では、軍人も含めた犠牲者数では福重地区で最大、罹災戸数では沖田郷(町)に次いで2番目に多い空襲被害が出た町といえる。

皆同郷(皆同町)、皆同砲台、空襲による防空壕の落盤事故(犠牲者9名)
 本来ならば先の項目=今富郷(町)の「福重砲台(今富砲台)と同じく、まず皆同郷(町)において空襲の最大要因である皆同砲台について書くべきである。しかし、本ページ内容は、空襲被害が主なので、簡単に触れておきたい。(いずれ、皆同砲台については、軍事施設の単独紹介ページを作成予定である)

 なお、軍事施設として他に今富郷(町)との間に皆同郷(町)にも福重飛行場(薄いコンクリート舗装の滑走路で長さ950m×幅30m)の一部(滑走路の長さ全体の約5分の1)があった。そのため、この飛行場完成前に、この地にあった福重国民学校(小学校)は、現在地=当時の矢上郷(現・福重町)に引っ越しさせられた。そして、先の皆同砲台と、この福重飛行場が、この町にあったことで、アメリカ軍機から狙われた。

(写真I) (上記写真はグーグルアースより) 皆同砲台跡 Aは銃座跡周辺 中央部緑色の山林中、目測で縦約70m、横約160mの間に砲台施設(銃座、地下の指揮所・電気・無線・弾薬庫・倉庫・炊事場など)があった。この写真では極一部しか写っていないが福重飛行場の全体長950mの内、皆同町側で約190mあった。
 防空壕での落盤事故と犠牲者について---この皆同砲台は、(写真I)の通り、丘にあたる中央部緑色の山林中に、目測で縦約70m、横約160mの間に諸施設(銃座、地下の指揮所・電気・無線・弾薬庫・倉庫・炊事場など)が点在していた。そして、それとは別に軍人・民間人問わず空襲時に逃げるため、やや大きくて、北向き(写真Iの上部方向)に穴の開いた防空壕があった。

 この防空壕での空襲と犠牲者について、次の「」内の地域証言がある。「1944(昭和19)年11月頃(現在、この空襲年月日を正確に調査中)に、アメリカ軍機によって皆同砲台への爆弾攻撃があった。その時、地震のように(通称で「今富城跡の)丘が揺れた。そして、防空壕の上部が落盤して11名が生き埋めになった。その内3名は助け出されたが、9名が犠牲となった。この犠牲者9名の内、6名が福重地区住民(日本人)、3名が朝鮮人の方だったようだ」

 既に本ページの前半部にも上記の地元証言をもとに、次の<>内のことも書いている。< (前略) 空襲警報で防空壕に避難していた11名が生き埋めになった。その内3名は助け出されたが、残り9名が犠牲となった。福重村の招魂碑・殉国慰霊顕彰碑に、この時の死亡者と思われるMさん3名と、外3名の名前が彫ってある。残りの3人は現在の「韓国・北朝鮮」の方と思われる。 (後略) >

 この皆同郷(町)における犠牲者数9名は、2020年8月に新たに西海市在住の方からの情報「福重砲台(今富砲台)での空襲により軍人が多数亡くなった」がある前までは、福重地区で最大の死亡者数であった。

補足


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」 「福重飛行場」 「福重飛行場跡の史跡説明板」 「野田機銃台」 「福重小学校の歴史


 (初回掲載日:2020年9月17日、第2次掲載日:9月24日、第3次掲載日:9月25日、第4次掲載日:9月27日、第5次掲載日:10月3日、第6次掲載日:10月4日、第7次掲載日:10月10日、第8次掲載日:10月12日、第9次掲載日:10月15日、第10次掲載日:10月21日、第11次掲載日:10月23日、第12次掲載日:10月26日、第13次掲載日: 月 日)
--------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・
<古写真や資料提供のお願い>
 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします)
       
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  下記3講演内容の詳細報告 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) 掲載中
関係HP  (増元氏の)大村空襲の講演  2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) 掲載中
       
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