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大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など    萱瀬の戦没軍馬慰霊像 
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 (写真A) 萱瀬の軍馬慰霊像(大村市田下町、氷川神社の境内)

概要紹介
名称:萱瀬の戦没軍馬慰霊像<かやぜ の せんぼつ ぐんば いれいぞう>
所在地:長崎県大村市田下町 (氷川神社の境内)
建立年月日:1991
(平成3)年9月29日
建立者:日本郷友連盟萱瀬郷友会
像の制作者:竹内修
像本体の大きさ:高さ:135cm横幅:150cm奥行き:40cm

主な内容(概要):萱瀬地区(旧・萱瀬村)で農業や林業で活躍していた農耕馬が、先の大戦時に軍から供出の指示があり、軍馬として戦地に行った。しかし、1945年8月15日の終戦を迎えて、戦死などを除き人(兵隊)は日本に帰国できたが、この軍馬は1頭も戻ることがなかった。飼い主にとっては家族同然だったが、戦争によって犠牲になったことを悲しみ、それを慰霊して建立されたのが、この萱瀬の戦没軍馬慰霊像である。 (詳細は上記データと、下段の「碑文内容」を参照」)

(写真B) 萱瀬の戦没軍馬慰霊像


 注1:この軍馬像の名称について、(写真A、B、C)に写っている碑文最初の大きな文字は、「弔 戦没軍馬の御霊」である。ただし、この文字だけでは、一般に像の名称としては、馴染みづらい。そのため、この像を調査した上野は、建立者(日本郷友連盟萱瀬郷友会)の萱瀬の方に敬意を表して、さらには場所(萱瀬地区名)を明示した方が分かりやすいので、2014年の『福重ホームページ』掲載時から「萱瀬の戦没軍馬慰霊像」と表記している。なお、ご参考までに、大村市の「広報誌1991(平成3)年12月号(11ページ下段左側の紹介記事」には、「戦没軍馬の慰霊銅像」となっている。

 注2:この軍馬像の彫刻家名について、碑文などは製作者名までは彫ってない。そのため、私は鋳造会社の株式会社・高岡鋳芸社(富山県高岡市)の方へ、2014年頃に問い合わせたところ、竹内修氏を教えて頂いた。同氏は、全国の彫像や伝統銅器など多数制作されている方である。

<用語解説>(下記は主に「デジタル大辞泉」の解説から引用した)
 ・軍馬(ぐんば)-------「軍隊で用いる馬。」
 ・戦没(せんぼつ)------「戦争で死ぬこと。戦死。」
 ・農耕(のうこう)-------「田畑を耕して農作物を作ること。」このことから、「農耕馬」とは「農作業用の馬」のことである。
 ・徴発(ちょうはつ)-----「1 人の所有する物を強制的に取り立てること。特に、軍需物資などを人民から集めること。2 人を強制的に呼び集めること。」
 ・供出(きょうしつ)-----「1 政府などの要請に応じて金品などを差し出すこと。2 政府が民間の物資・主要農産物などを一定の価格で半強制的に売り渡させること。」


碑文内容
 下記
<>青文字が、(写真A,、B、C)に写っている碑文内容(金属プレート製)である。私は、通常ならば碑文本文の後に、現代語訳(口語訳)をしている。しかし、この慰霊像は、1991(平成3)年に建立されているので、まだ20数年しか経っていないので、あえて現代語訳などはしていない。

(写真C) 萱瀬の戦没軍馬慰霊像の碑文

 < 弔 戦没軍馬の御霊
 憶ふに支那事変勃発するや農耕馬等は 軍馬として徴発され隊馬として共に支那大陸 を始め東亜の各地に転戦し人馬一体となり皇国の必勝を期し勇戦奮闘せり

 しかれども戦いは我に利あらず昭和二十年八月十五日終戦の聖断下る。而して戦地にありし軍人は逐次復員し祖国の土を踏めども、ひとり軍馬のみは一頭だに帰ることなく異国の地にありてその生命を絶つ

 嗚呼悲しいかな、愛馬と共に戦塵にまみれ戦いし、かの地かの時を想ふ時ただ悲痛の涙流るるのみ。凡そ生命のあるもの必ず魂あり。 茲に国難に殉ぜし戦役軍馬のみ霊安かれと祈念しこの銅像を建つ。

  平成三年九月二十九日   日本郷友連盟  萱瀬郷友会  会長 中瀬正隆
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軍馬とは------馬と戦争
 軍馬
(ぐんば)とは、上記の用語解説(デジタル大辞泉)通り、「軍隊で用いる馬」である。ただし、もっと広い意味で、この軍馬・戦用の馬を考えると、簡潔で明解な先の国語辞典の解説以上に、その内容(用途)は幅広く、さらに、その歴史も古今東西とも大昔まで遡る(さかのぼる)

(写真D) 日本陸軍、騎馬での演習<奥側の山は、富士山と思われる>
(ある大村市民所有の写真から上野が複写し縮小した) 

 軍馬は、その働きぶりを現代風に言いかえれば、乗用車(騎馬兵)、トラック(荷馬車)、トラクター(農耕馬)、戦車(武器)がわりにもなっていた。また、戦争時のなどにも描かれている。例えば学校の教科書でも習うナポレオンのアルプス越え(「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」ダヴィッド作)など、多数ある。

 また、アジアでは、チンギス・ハーンやフビライ・ハーンなどが、強大なモンゴル帝国を築いたのも優秀な騎馬民族が背景にあったと推測される。

 日本でも大昔から戦用の馬は、活躍した。中でも有名なのは、平安時代末期頃の源平合戦時
(一ノ谷合戦など)、源義経などの源氏側が「鵯越えの逆落とし(ひよどりこえ のはさかおとし)」した時も、その主役はだった。

 時代は下り、近代になって乗用車 トラック 戦車まで戦争時に登場しても、なお、それらが大量生産されるまで、まだまだ、軍馬が、その主任務を果たしていた。とりわけ、大砲、弾薬、食料、各種物資の運搬時の荷馬車
(トラックがわり)の活用は、力持ちの馬がいないと、重量物運搬は不可能だったともいえる。

 このように、幅広い用途で大活躍する軍馬を多数必要としていた当時の日本軍は、馬所有者へ、その徴発徴用の命令を下したものといえる。昔の戦や近代の戦争も人も戦死・病死・行方不明などになる場合が多い。しかし、本来は、農耕馬や運搬で働いていたが、ひとたび戦争へ挑発され、軍馬として戦地(外国)へ連れて行かれたら、二度と一頭も帰国できない悲しい出来事でもあった。

馬は家族同然
・馬は農林業などで大活躍した
 現在、大村市内では、ほぼ見られなくなった。ただし、私の子供の頃(約60年前頃)には、まだ福重地区でも他地区でも何頭かいた。また、戦前から戦後しばらくして耕運機(その後、トラックやトラクター)が農家に導入されるまで、馬は農産物の運搬(荷馬車)だけでなく、田畑を耕す農耕馬としても大活躍した。
 

(イメージ写真)

 また、萱瀬地区(旧萱瀬村)は、林業も盛んだった所で、その仕事でも馬は、重い木材の林道内の移動、さらには製材所や木材市場(販売所)への木材運搬に欠くことのできないものだった。あと、農林業だけでなく商工業分野でも、まだトラックが導入されるまで、(遠距離の鉄道輸送を除き)馬に引かせた荷馬車が中心だった。念のため、競馬場は、古今東西、昔も今も、その名の通り、馬自体が主役そのものである。

 また、農家にとって、家の次くらいに馬は、高価で財産(資産)でもあった。なお、馬は飼育用に毎日、水や飼葉
(かいば)を与えるのは当然のことである。さらに、健康維持のため、馬体全体のブラッシング(グルーミング)や、水洗いも必要である。

 さらに農耕などをしない日が続くと、
(気分転換含めて)近くの川に連れて行って、水を飲ませたり、馬体を川の水で洗ってやる場合もあった。そのようなことは昔からあり、江戸時代、大村藩が編纂した(大村)郷村記に、「馬洗い場」の記述されたり、地域伝承としても、同名の川の場所が今でも語られている。その伝承の一例として、草場町の馬込水源(水神)の約5メートル下流側は、「ここは馬洗い場だった」と聞いたことがある。

・馬は、かけがえのない家族(我が子同然)だった
  ここから、上野が馬について見聞きした内容を書いていく。まず、馬は、体が大きい割に競馬場で活躍してる馬を筆頭に駆けるスピードが速いし、力持ちである。また、広くて遠い所まで見えているのではと思える大きな目を持っている。さらには、(私の子どもの頃)農家で飼われていた時の農耕馬の性格は、人懐っこい感じがした。

権田の馬頭観音
(大村市田下町、氷川神社の境内)

 かつて馬所有者だった方の話として、次の「」内の話を聞いたことがあった。所用もあり、馬を連れて外に出た。そして、馬を繋いで、その用件で長く話し込んでいた。話が終わり、戻ってみると繋いでいたはずの馬が見当たらない。周囲を探しながら自宅に戻ると、何事も無かったように自分の馬小屋に戻って、ムシャムシャと飼葉を食べていた。たぶん腹が減っていたのだろう。家に帰る道を教えた訳ではないのに、馬は賢い動物だ」

 また、先にも書いたように、馬を飼うには、飼葉の準備や馬体の手入れなど様々なことが、毎日必要である。さらに、言葉で通じない分、飼う側で全てを察していく必要もある。
馬に名前(「アオ」などを良く聞いた)までつけて、可愛がっていた農家もあった。

 そして、飼い主が、いくら健康や長寿を願っても、馬も人と同じで病気、怪我(けが)などもあり、最悪、早死にする場合もある。大村市内には、馬頭観音が沢山あるが、その内の9体は、萱瀬地区(旧萱瀬村)内にある。この馬頭観音の建立目的は、大昔は別ながらも主には馬や牛の健康 長寿を願い、亡くなれば慰霊の意味を込めて造られたものであろう。

 馬は、農業 林業 運搬業などでの働き手であったばかりではなく、家にいては、
家族同然(我が子と同じ)だった。そのような馬、特に今回紹介の萱瀬地区(旧・萱瀬村)にいた多数の馬が、戦地に駆り出され、終戦になっても一頭も戻って来なかったのは、飼い主にとって家族を亡くした悲しみと同じだったろう。また、人の都合で始められた戦争は、人だけが犠牲になるのではなく、このように馬や動物さえも大きな犠牲になっているのである。

 私が、この萱瀬の戦役軍馬慰霊像を調べて、建立された意味も改めて考えた。それは、萱瀬地区の方々が、馬を飼っておられた頃の深い愛情だった。この像を見ると、美しい萱瀬の森林や田畑で活躍していた馬の情景も浮かんできた。

補足


   (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ペーj:「馬頭大村の観馬頭音シリーズ(もくじ)」 、 「権田の馬頭観音(大村市田下町、氷川神社の境内)
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(初回掲載日:2022年3月7日、第2次掲載日:3月13日、第3次掲載日:3月24日、第4次掲載日:3月28日、第5次掲載日:  月 日、第6次掲載日: 月 日)

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