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写真・報告 その519
2021年 大村高校、鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村<6月16日の活動> (概要報告)

(写真1) 前列と2列目は大村高校生、奥の列は鎮西学院大学生<旧松屋旅館にて> (この下側は旧・長崎街道が通る)

(写真2) 大村高校生鎮西学院大学生<鹿島近くの松並木、旧・長崎街道脇、奥は大村湾で最奥側は西彼杵半島>

2021年、大村高校、鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村<6月16日の活動> (概要報告)
日時:2021年6月16日
10時00分~11時55分
参加:
全体で33名(内訳:大村高校生16名、同校の先生2名、鎮西学院大学生6名、同大学の先生2名、講話担当者・地域関係者5名。あと、報道関係者2名も取材に来て頂いた)
場所:
大村市松原本町77-1 旧松屋旅館、旧•長崎街道から鹿島まで
見学先:旧松屋旅館や旧・長崎街道沿い
主催:鎮西学院大学
 長崎県立大村高等学校スーパーサイエンスハイスクール(SSH)

主な活動項目
 まず、下記項目は、上野が見学した範囲内で、時間に沿って活動項目のみを書いている。ただし、私は、旧松屋旅館からの活動状況しか見学していないので、その前の状況(詳細)は、分かっていないので、その点は、ご了承願う。
 ・(バスから降車)松原小学校近くにある「よし橋」から旧・長崎街道を歩き、旧松屋旅館に到着
<旧松屋旅館にての講話や見学、旧・長崎街道を歩く>
 1)あいさつ
 2)兵児葉寿司おこし(松原おこし)の歴史や製造方法などの講話
 3)松原宿活性化協議会の講話
 4)旧•長崎街道を歩く
  ・鹿島前の駐車場でバスに乗車

(写真3) あいさつ前の確認中(旧松屋旅館にて)
 (写真4) 中央:御厨氏の「兵児葉寿司おこし」講話中
  (写真5) 中央:「兵児葉寿司おこし」
(写真A) 中央は旧・長崎街道 左側は松原小学校(旧・松原村の庄屋) 
(写真6) 右端は講話中の村川会長
(写真B) 2019年の松原宿のひな祭
 
(写真C) 2019年の寺子屋塾(手前は松原小の児童) 
(写真D) 2019年、大村高校生の旧松屋旅館の見学  
(写真7) 二つの表彰を授賞(右側は村川会長)
 (写真8) 旧松屋旅館の2階にて、記念写真の撮影中
  (写真9) 反対側にいる松原地区の方々へ、お礼の挨拶中
  (写真10) 旧・長崎街道を歩き出す
 
  (写真11) 右側:大きな相撲取りの墓を見ながら歩く 


主な内容
 ・(松原小学校近くにある)「よし橋」から旧・長崎街道歩きについて
  この通りは、江戸時代初期頃から現在の国道34号線ができる頃まで、松原村庄屋(その後の松原小学校)を始め、商店や鍛冶屋(松原の包丁・刃物・農機具など)などが、現在のJR松原駅近くまで、軒を連ね大いに賑わった街並み(街道筋)だった。

 ご参考までに、現在は、この旧・長崎街道沿いには、史跡説明板や案内板も設置されていて、例えば「松原庄屋跡」 「長岡左近純生の墓」 「松原八幡神社」 「相撲取り墓」 「鹿の島弁財天」などもあり、見学する時の良い資料ともいえる。(詳細は、先の「」内名称をクリックして閲覧願いたい)

 長崎街道は、別名「シュガーロード(砂糖の道)」ともいわれ、古くから例えば「松原おこし」や「大村寿司」に使われてきた。その意味で、この松原を通る旧・長崎街道沿いは、そのシュガーロードの一例を見学できるだけでなく、食味も実体験できる場所でもある。

1)あいさつ----(省略)

2)兵児葉寿司おこし本舗(へこはずし おこし ほんぽ)=「松原おこし」についての講話(概要)---製造者:御厨 氏
 このおこしの製造者の御厨氏から、創業から現在までの歴史、原材料、作り方や評価などの講話があった。また、最後には、おこしの提供もあり、参加者一同、試食して喜びの声をあげた。上野からも、改めて感謝したい。この講話の概要は、次の「」内などであった。

 ・概略史---「創業は延宝7年(1679)である。戦前戦後の一時期だけ製造を中断したこともあったが、大村市長の大村純毅氏の時代(1952~1968)に復活の要望もあり、現在も作り続けている。

 ・製造方法----「作り方として、米を蒸し乾燥させたものを煎り、自家製の水飴をまぶし黒砂糖を入れて作る。質素な作りと味である。今、配っているのが原材料の一部である。

 ・名前の由来---「皆さん、”兵児”(へこ)は知ってますか? ”ふんどし”とも言い、昔、男が付けていた下着で、今ならパンツである。このお菓子を食べたところ、美味し過ぎて、その”兵児”が外れていることさえ忘れて(気づかず)に食べ続けたという話しからである。

 ・評価など---「このおこしは、中国系といわれている。おこしといえば、全国例で硬いのも多い。しかし、このおこしは柔らかく、学校給食にもつかわれているほどである」

<2)の講話の質疑応答>
 Q1:後継者難とも言われたが、今の状況は?
 A1:息子が継いでくれることになった。今後は、このような講話なども含めて話してくれると思うので、よろしく願う。(注:ここで、跡継ぎご本人の紹介があった)

3)松原宿活性化協議会の講話
---会長:村川 氏
 松原宿は、旧・長崎街道の約600m部分をいう。この通り沿いは、国道34号線が現在の所に移設されるまでは、大村市内で2番目に賑わった町であった。その頃は、この道をバスも通っていた。

 江戸時代頃には、この(スライド)写真にある通り、当時の人は見たこともないような像やラクダなども通り、ワクワク感さえあったと思う。道路は、人も物も商売も変えていくので、国道34号が変わって以降、商店数も人口も(スライドの)図や表の通り減ってきた。商店については、今では極わずかになってしまっている。

 (参考までにスライドの表より、1960年当時の松原地区全体の人口は約3,400人、松原小学校の児童数は575人もいた。しかし、2014年になると地区人口は2,163人、児童数は118名となった)

・松原宿活性化を目指して
 そこで、再度の活性化を目指して立ち上げたのが、松原宿活性化協議会である。この会の主な目的は、次のとおりである。古里復興(歴史ある「松原くんち」の参加など)、 街並み保存(・旧松屋旅館の存続維持、・歴史案内版の設置、・古民家の活用、・小道具や古写真の展示)、 地域の活性化(・ひな祭り、・地域関連団体との交流事業、・各種イベント、・市内小中学校の見学受け入れ、・寺子屋塾)

・人気の寺子屋塾
 このような目的の沿って活動してきたところ、(スライドの)一覧表通りの実績となった。この中でも一番人気は、寺子屋塾である。(参考ページ:「2019年、長崎街道・松原宿寺子屋塾>開校式(概要報告)」) 夏休み期間中、松原小学校の児童約70%(約70人)が、ここに来て長崎大学教育学部のゼミ、多彩な講師を招いて勉強している。それも、「楽しく」「時には厳しく」「刺激ある」内容となっている。

 児童も寺子屋塾に喜んで参加しているが、その中でも松原地区の方々が作って下さるカレーライスが、大変美味しくくて、子ども達が大人気で食べている。

・評価の高い地域活性化事業
 このようなの松原宿活性化協議会の活動を評価して下さって例えば、次のような表彰状を頂いた

 ・2020年度文化庁認定の日本遺産『砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~』において構成文化財に認定

 ・長崎新聞新聞社など地方新聞46社と共同通信社が地域活性化に取り組む団体を全国に紹介する「第7回地域再生大賞(2017年2月17日)を授賞。(このことは「まちづくりチャレンジ550」の本に収録されてもいる)
)

日本遺産授賞記念のケーキ「松原の宝
 この日本遺産の授賞を記念して、今年(2021年)にケーキをシュシュの指導をうけて子ども達と一緒に作った。そして、そのケーキの名前も付けた。新型コロナ渦の中で、できないこともあるが、できることはやっている。この活動17年目にして思うことは、とにかく、地域活性化の取り組みは、地道にコツコツと継続していくことが何よりも大切である。

<3)の講話の質疑応答>
 Q1:先ほどのケーキの名前は、なんと付けたのか?
 A1:ケーキ名は「松原の宝」だ。でも、一番の宝は子ども達だと思う。

 Q2:この旅館は今と違う(仕様など)はあるのか?
 A2:昔の人は身長が高くなかったせいか、天井(鴨居)などが低い。雨戸締めに木製の鍵(かぎ)がある。また、庭には井戸や馬屋などもあった。

 Q3:この旅館には有名人も泊まったのか、その名前はあるか?
 A3:この旅館は元々、庶民が泊まったので、有名人などの名前はないようだ。古い宿帳も残っていうが、苗字もない人が多い。偉い人などは、この反対側にあった家(旧・上野酒店の家に賓客用の)大広間があったので、そこで休憩したようだ。

4)旧•長崎街道を歩く
 先の二つの講話も終了し、旧松屋旅館の内部見学や2階の窓口から旧・長崎街道を見下ろす感じでの記念写真の撮影もおこなった。(写真1と8を参照) 旧松屋旅館を出る時には、お世話になった松原地区の方々へ、お礼の挨拶もあった。(写真9参照) その後、大村高校生と鎮西学院大学生は、旧・長崎街道を歩くことになった。(写真10参照)

・静かな通り
 この旧・長崎街道沿いでは、かつて商店、さらには松原包丁や農機具をつくる鍛冶屋(工場)などで、人の賑わいや、鉄を打つ槌音(つちおと)など様々な音色も響き渡っていた道筋だった。

 しかし、現在は、上記3)の講話内容で話された通り、商店は一軒のみで、鍛冶屋はこの付近では見かけなくなった。ひとことで表現すれば、「静かな通り」といえる。

・相撲取りの墓
 旧松屋旅館から約350m歩いた所(JR大村線。松原駅からならば海岸へ60m行った先)には、町墓がある。その一角で、旧・長崎街道脇に大きな自然石でできた3基の相撲取りの墓がある。ここで、この「相撲取りの墓の史跡説明板」も見ながら、しばし、「あっ、これ何?」「大きいなあ」などの感想の声も聞こえてきた。(写真11参照)

・変配橋(へんぱい ばし)
 
先の相撲取りの墓から北側へ約60m歩くと、変配橋が見えてきた。(写真12を参照) この橋は、直ぐ近くの大村湾(海)から常時(塩分を含んだ)潮風が吹いている。つまり、塩害に遭いやすい場所にある。その割には、今でも橋自体は、頑丈である。ただ、周囲の道路の方は、一部アスファルトに、ひび割れなどが見られた。

 ここで、橋の名称について、次の「」内の質問が出された。「(変配橋と言う)珍しい名前の由来は何か?」と。 上野の方から、「たぶん、この変配橋の架かる変配川は、中・上流域にある2~3本の川が合流して、まるで配合(配置)されたように合流して流れ下っているからではないか?」 「この変配川は、昨年(2020年7月6日)の水害時に、ここの上流側で被害がでた」と答えた。(松原地区の水害状況は、このページを参照願いたい)

・鹿島の前にて
 変配橋から約350m歩くと、鹿島が近くに見え、松並木も美しい海岸脇の駐車場に着いた。(写真2と13を参照)ここで、次の「」内の質問があった。「あの鹿島には、何があるのか?」と。

 上野から、鹿島の中央部には、「鹿島弁財天や戦争で亡くなられた慰霊碑などがある。以前は料亭もあった。今は北側が漁港になっている」と答えた。

 ここで、大村高校生と椿西学院大学生と別れの挨拶をして、皆さんは送迎バスに乗り込んだ。私達、取材陣は手を降りながら見送った。

<上野の補足や感想>
 今回の「大村高校、鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村」は、私の知る限りで、「2019年5月8日、長崎街道さるくin大村・第1回講義(概要報告)」から始まっています。そして、上野自身も「2019年7月10日 大村高校、「長崎街道インフラさるくin大村<7月10日の講義> (概要報告)」にて、「郡川の飛び石と福重橋の歴史(概要報告)」の講話をしました。

 先の事柄と、私は大村高等学校当時、出来は悪かったが約50年前の卒業生でもあるので、この諸活動について親近感を持っていました。私は、学生時代に地域(郷土)のことを知るのは、単に郷土愛が増すだけでなく、仕事上(商売上)でも強みを発揮する場面があることを実体験しました。

 とりわけ、地域の大昔から長年にわたる今回のようなインフラ(整備)の内容は、人・文化・情報・経済などの流れを系統的に知りうることも可能でしょう。そして、そのことによって、今後の在り方も分かってくる一端もあるかもしれません。最後になりましたが、参加された大村高校生と鎮西学院大学生のご活躍を祈念しています。今回の活動に参加された全員の皆様、大変お疲れ様でした。

 (写真12) 道路の右奥にある変配橋周辺を歩く  (写真13) 鹿島の手前、松並木のある海岸近くで記念撮影
・関係ページ:「長崎街道 松原宿ひな祭り」 「2019年、長崎街道・松原宿寺子屋塾>開校式(概要報告)」 「松原庄屋跡」 「長岡左近純生の墓」 「松原八幡神社」 「相撲取り墓」 「鹿の島弁財天

・2019年の関係ページ:「2019年5月8日、長崎街道さるくin大村・第1回講義(概要報告)」 、「2019年 大村高校、「長崎街道インフラさるくin大村<7月10日の講義> (概要報告)」  「2019年7月10日、郡川の飛び石と福重橋の歴史(概要報告)
福重橋(郡川の飛び石」 、 「郡川
初回掲載日:2021年6月17日、第二次掲載日:6月18日、第三次掲載日:6月19日、第四次掲載日: 月 日
 


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