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福重の写真集 その442

2023年10月27日 大村市立鈴田小学校・地域学習「鈴田の城跡(しろあと)と戦(いくさ)」(講話の概要報告)
 2023年10月27日、手前側は6年生、奥側は講話中の上野
岸高城跡(きしたかじょうあと)
 
伊勢山城跡(いせやまじょうあと)
塔の峰城跡(とうのみねじょうあと) 
 
鈴田道意館跡(すずたどういのたち あと)
中央部:矢櫃・這坂史跡説明板
矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)の史跡説明板」より 

2023年 大村市立鈴田小学校・地域学習・「鈴田の城跡(しろあと)と戦(いくさ)」(講話の概要報告)
日時:2023年10月27日
11時00分〜11時45分
場所:鈴田小学校・教室
受講者:6年生8名
講話担当:上野
注:下記の(1)から(8)までは、あくまでも見出し程度なので、詳しくは各城跡名称のリンク先、もしくは各「史跡説明板」のリンク先から参照願う、先の二つのリンク先に写真も何枚かづつ掲載中である。

テーマ:鈴田地区の城(しろ)、砦(とりで) 館(やかた)の跡(あと)と戦(いくさ)

<鈴田の城の名称(めいしょう)と数(かず)>
(1) 岩松城跡(いわまつじょう あと)-----岩松町 、別名(べつめい)「針尾河内古城(はりお かわち こじょう)」。(史跡説明板「岩松城跡」を参照)

(2) 白鳥城跡(しらとりじょうあと) -----岩松町、白鳥川から60m離れた丘(おか)にあった。(史跡説明板「白鳥城跡」を参照)

(3) 西光寺山城跡(さいこうじやまじょうあと)-----小川内町 、鈴田川から160m離れた丘、にあった。

(4) 平ノ前城跡(ひらのまえじょうあと) -----平町 、城の遺構(いこう)として堀切(いこう)、土塁(どるい)、曲輪(くるわ)などがあった(トンネル工事で、ほとんどなくなった)

(5) 岸高城跡(きしたかじょうあと) -----中里町 、諫早領(いさはやりょう)に近い小山にあり切岸(きりぎし)がある。(史跡説明版の「岸高城跡」参照)

(6) 伊勢山城跡(いせやまじょうあと) -----中里町、城の遺構(いこう)として土塁(どるい)、切岸(きりぎし)、曲輪(くるわ)などがある

(7) 塔の峰城跡(とうのみねじょうあと) ----- 陰平町 、小山にあり朝長右衛門大夫純織朝長右衛門大夫純職(ともながうえもん だいゆう すみかね)が諫早勢(いさはやぜい)に、防戦(ぼうせん)したが、討死(うちじに)した城。(史跡説明版の「塔の峰城跡」参照)

(8) 鈴田道意館跡(すずたどういのたち あと) -----大里町 、別名(べつめい)「内倉城(うちくらじょう)」、) 今は、何もない。.(史跡説明版の「鈴田道意の館跡」参照)

<鈴田の城の特徴(とくちょう)>
(1) 大村には松原、福重、竹松、萱瀬、西大村、鈴田、三浦の8地区がある。その中で鈴田地区の城の数(かず)が、一番(いちばん)多かった

(2) なぜか? 戦国時代(せんごくじだい)、大村と仲の悪かった諫早勢(いさはやぜい)との距離(きょり)が近く、攻めてくる時に、鈴田は大村を守る、最前線(さいぜんせん)の役目(やくめ)があった。(2番目に多いのが萱瀬、3番目が福重だった)

3) 鈴田の城は、ほぼ全部が小山か丘である。石垣(いしがき)などはなく、自然(しぜん)の山に上手(じょうず)に土をもったり、崖(がけ)を切ったりして守りを、かためていた。

4) 城の近くには、鈴田川、白鳥川、小川内川、内倉川などの川、または泉の湧(わき)出るところに多かった。守りやすく、飲料水(いんりょうすい)が必要(ひつよう)だったからだ

5) 平和な江戸時代(えどじだい)になると、ほとんどの城が使われなくなった。これを廃城(はいじょう)という。

鈴田の城の特徴(とくちょう)
 (1) 大村8地区(松原、福重、竹松、萱瀬、西大村、鈴田、三浦地区)の内で鈴田地区の城の数(かず)が、一番(いちばん)多かった

 (2) なぜか? 戦国時代(せんごくじだい)、大村と仲の悪かった諫早勢(いさはやぜい)との距離(きょり)が近かった。そのため、鈴田の城は、諫早軍が攻めてくる時に大村を守る、最前線(さいぜんせん)の役目(やくめ)があった。(2番目に城が多いのが萱瀬地区、3番目が福重地区だった)

 (3) 鈴田の城はほぼ全部が小山か丘の上である。高い石垣(いしがき)などはなく、自然(しぜん)の山に上手(じょうず)に土をもったり、崖(がけ)を切ったりして守りを、かためていた。

 (4) 城の近くには、鈴田川、白鳥川、小川内川、内倉川などの、または泉の湧(わき)出るところに多かった。守りやすく、飲料水(いんりょうすい)が必要(ひつよう)だったからだ。

 (5) 平和な江戸時代(えどじだい)になると、ほとんどの城が使われなくなった。<これを廃城(はいじょう)という>

鈴田での戦(いくさ)について
 鈴田での戦(いくさ)の記録(きろくは)は、下記(かき)を除き(のぞき)、少ない..
(1) 塔の峰城(とうのみねじょう)で の戦について
 諫早 (いさはや)の領主(りょうしゅ)西郷氏(さいごうし)の軍勢(ぐんぜい)が鈴田に攻め込んで来た時に、朝長右衛門大夫純職(ともなが うえもん だいゆう すみかね)が、こ二で防戦(ぼうせん)して討死(うちじに)した所」との記録(きろく)がある。 くわしくは「塔の峰城跡の史跡説明板」を参照)

(2) 矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)について
 1572年の「三城七騎籠りの戦い」(さんじょう しちき こもり の たたかい)の後(あと)、平町の川の近くで、諫早軍(いさはやぐん)が武具(ぶぐ)を全て、矢櫃(矢などを入れる箱)まで捨て去ってから、そこを「矢櫃(やびつ)」と呼び、また、這(は)うようにして、よろけて山を登(のぼ)ったので「這坂(へーざか)」というようになったと伝えられている。 くわしくは「矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)の史跡説明板」ページを参照)

・参考(さんこう)までに-----下記(かき)は、戦(いくさ)と直接(ちょくせつ)は関係(かんけい)ないが、武士(ぶし)の墓(はか)である。くわしくは、写真説明文のリンク先から参照願う。
鈴田道意(どうい)の墓といわれている 渡辺伝弥久(でんやく)の墓と馬の墓


・質疑応答(Q&A)
 この質疑応答(下記のQ&A)は、講話時に直接、児童から質問あった内容と、事前に質問事例を用紙にて頂いていた分も含めて、順不同で書いています。なお、下記項目の名称につけているリンク先から詳しくは、参考願います。
Q1:鈴田道意の館は、どこにあるのか?
A1:この館は別名「内倉城」とも呼ばれていたが、今の町名は大里町である。
岸高城跡(きしたかじょうあと)
 
伊勢山城跡(いせやまじょうあと)  主郭(本丸)跡
平ノ前城跡(ひらのまえじょうあと) 、右側は切岸
 
渡辺伝弥久(でんやく)の墓と馬の墓 

Q2:鈴田であったは、どのようなものがあるのか?
A2:塔の峰城で渡辺右衛門太夫純職が討ち死にした戦が、一番有名だ。あと戦と関係していることで、諫早軍勢が「三城七騎ごもりの戦」で諫早へ逃げ帰る時、平町の川近くで武具を捨てたり、山を這う(はう)ように逃げた所も有名だ。(「矢櫃(やびつ)・這坂(へーざか)の史跡説明板」ページを参照) なお、先の2か所には、いずれも史跡説明板があるし、福重ホームページにも、その内容を掲載中なので参考願う。

Q3:鈴田道意は、どのような人か?
A3:古記録に大村家の家来で大村家の娘を妻にしていたという。戦で1回、裏切り、その後の戦で大村家のために手柄を立てたみたいに書いてはあるが、事実と違うこともあり、間違いや分からないことが多い。(史跡説明板があるし、福重ホームページにも掲載中)

Q4:
鈴田道意の治めていた範囲は、どこまでか?
A4:詳しくは不明ながら、鈴田村の全部と思う。

Q5:
鈴田で一番大きい城は、どこか?
A5:全部の城跡の面積まで調べた資料がないので不明だ。ただし、鈴田の城は、どこも大きくはなく、ほぼ全部の大きさは、同じ位だ。伊勢山城は、上野が計測したのでリンク先に書いている。(伊勢山城は、福重ホームページに掲載中)

Q6:鈴田には、なぜ、たくさんの城があるのか?
A6:鈴田は、諫早軍が大村を攻めてきたら地形的に境界なるので、鈴田は最前線の場所だ。山側からなら伊勢山城岸高城などは、諫早との境近くの城だ。三浦の海側から攻められれば、塔の峰城で止めないと、あとは鈴田川まで攻められる。

Q7:鈴田道意(どうい)の墓は、どこにあるのか?
A7:大里町の高速道路に沿って行って町墓の場所にある。くわしは、リンク先から参考願う。(鈴田道意(どうい)の墓の史跡説明板があるし、福重ホームページにも掲載中)

Q8:鈴田道意は、何歳で亡くなったか?
A8:古記録を調べていないが、もしも、あっても死亡年だろう。生まれ年までは、大昔は記録が少ない。誕生日を祝ったり、記録するのは、日本では、西洋をまねて、かなり新しい年代からだ。

Q9:鈴田にある城の城主は、どのような人か?
A9:鈴田村を治めた鈴田道意館のをのぞき、他の7城は最前線の城ながら常時たくさん武士がいた訳ではない。大村家の家来(鈴田の地元の武士)が留守番役でいた位だろう。あの有名な大村純忠でさえ、「三城七騎ごもり」で分かるように三城城を攻められた時、武士は、たった7人だったので各所から慌てて加勢して、やっと純忠たちを守った。

Q10:大村には城が、いくつあるか?
A10:大村市内には、城、砦、館含めて全部で30カ所と思う。鈴田地区が8カ所で一番多く、2番目は萱瀬地区の7カ所、3番目は福重地区の5カ所だ。この3地区だけでも全体の2/3にもなる。

<上野の感想など>
 
 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


・鈴田小学校での地域学習の講話関係ページ:(注:下記講話内容は全部、上野が担当した史跡や地形などの説明のみ」)
2017年10月30日、鈴田小学校での「地域学習<鬼の石、地主大明神(概要報告)(注:上野の講話分のみ)
2018年11月1日、鈴田小学校での「地域学習(概要報告))(注:上野の講話分のみ) 、
2019年5月31日、鈴田小学校での「地域学習<鬼の石、地主大明神>(概要報告)(注:上野の講話分のみ)
2020年5月25日、鈴田小学校での地域学習<鬼の石、地主大明神などの講話>(概要報告)(注:上野の講話分のみ)


 ・鈴田地区の史跡説明板:「地主大明神(ちゅうずだいみょうじん)

(初回掲載日:2023年10月28日、第二次掲載日:10月30日、第三次掲載日:11月3日)

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