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福重の名所旧跡や地形

不動寺跡と不動尊(ふどうじあと と ふどうそん)(今富町)
不動寺跡と不動尊 場所:長崎県大村市 今富町

 この不動寺跡と不動尊(ふどうじあと と ふどうそん)は、大村市今富町の帯取にあり、地元で現在も祀っておられます。今は、不動尊とか不動神社と呼称されています。

 この周辺は、黄金山古墳などもあり、古い遺跡や遺物が出土した地域です。また、この一帯は、丘の上と言う感じで不動尊及び、その直ぐ上の所からは平野部も見えます。

 下記に『大村市の文化財』と(大村)郷村記を引用して書きす。

<左写真:中央は現在の不動尊

  この不動寺跡と不動尊(ふどうじあと と ふどうそん)の紹介について、まず、『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)を引用して紹介します。その後で(大村)郷村記などについて書いていきます。『大村市の文化財(改訂版)』69ページの不動寺跡に、次の<>内が記述されています。(最後半の一部は省略)の通り書いてあります。

   不動寺跡 今富町の帯取(おびとり)にあり、今は不動堂といって、帯取・地堂の氏神となっています。創立の時代は不明ですが、平安時代後期の久寿(きゅうじゅ)2年(1155)には寺名が出ています。真言宗(しんごんしゅう)で本尊は不動明王の大仏であり、本坊のほかに七つの脇坊があったといわれますが、その場所はまったくわかりません。

 天正2年(1574)キリシタンに壊された時、不動の仏像を「よしみつ」という屋敷に埋めて、しるしに杉が植えられました。江戸時代の寛永(かんえい)元年(1624)不動の仏像を掘り出し、長い間、松の木に立てかけておいたために、雨露に濡れ手足は離れ落ち、杉の木片のようになってしまったといわれます。

 宝暦(ほうれき)3年(1753)2月、妙宣寺9世正善院日乗が、不動寺の跡に不動明王を祭る社を建てました。幕末の神体は彩色の木坐像で、拝殿は五畳ばかりで3間(約5.4m)の茅ぶき、石鳥居1基で、境内は10間(約18m)×21間(約38m)でした。不動寺時代の不動仏の木片は、幕末までは残っていたのですが、その後はわかりません。

 現在の神体は、明治27年(1894)多羅山宝円寺跡より移された、金箔鋳造坐像の不動明王で、高さは95cmあり、拝殿は3問(約5.4m)×4.5間(約8.2m)あります。境内は約700uで、石の鳥居があります。額には「不動尊」と刻まれ、社殿前の手水鉢(ちょうずばち)は丸形の古いものです。 >

大村郷村記の関係記述
  大村郷村記(藤野保編)には、今回の不動寺跡と不動権現のことについての記述は、そう多くはありませんが、「帯取 不動明王」として第二巻、(福重村の項)119ページに書いてあります。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。下記の太文字が、大村郷村記からの引用です。

帯取 一不動明王 (神躰木座像彩色 例祭九月二十八日) 妙宣寺勧請 氏子中祭之
            神殿 三尺五寸 瓦宇
            拝殿 五畳梁三間 萱宇
            石鳥居 壱基
      境内入拾間横弐拾壱間
      当社は元不動寺と云寺地なり 天正年中耶蘇の徒破却 宝暦三癸酉年二月深重山九世正善院日乗建立


・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。( )内は、上野の補足や送り仮名などです。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

 < (今富村の)帯取 不動明王 御神体は木製の彩色された座像である。例祭は9月28日である。(深重山)妙宣寺に来てもらって氏子で祭っている。神殿は106cm(四方の)瓦屋根である。拝殿は5畳(の広さ)で梁(の長さ)は約5.5mである。萱(かやぶきの)屋根である。石の鳥居が一基ある。境内は奥行きが約18m、横幅約38mである。

 当社は元・不動寺と言う寺地(寺のあった所)である。天正年間(1573〜1592年)に耶蘇(キリシタン)(注1)が、(不動寺を)壊した。宝暦3癸酉(みずのととり、きゆう)年(1753)に深重山(妙宣寺)の第9代(住職の)正善院日乗が建立した。 >

(注1):宣教師が大村領内の神社仏閣の焼打ちを大村純忠に何回も要請した。当初断っていた純忠も後で許可した。結果、天正二(1574)年にキリシタンにより神社仏閣の焼き打ち、破壊、略奪の限りがおこなわれ、僧侶・阿乗も殺害された。(「キリシタン時代に起こったこと」 、「大日堂」、「阿乗の碑」などを参照)

・補足
 今回書きました不動寺について、先の『大村市の文化財』を再度参照しますと、「平安時代後期の久寿(きゅうじゅ)2年(1155)には寺名が出ています。真言宗(しんこんしゅう)で本尊は不動明王の大仏であり」とあります。これは、何を意味するのでしょうか。創建が新しいと仮定しても平安時代後期前には既に存在していた寺院だったと言うことです。

 このことが正しければ、私は「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」ページなどで繰り返し書いているのですが、「大村への仏教伝播の従来説=郡地区の仏教寺院は中世時代の創建」説は間違いであることを根拠付けできる一つの例だとも思えます。当然、このこと一つのみではなく、例えば平安時代末期頃の大村の経筒単体仏、線刻石仏などからも、そのことは分かりやすいと思います。

 いずれにしても、この今富一体は縄文・弥生時代から穀倉地帯で、黄金山古墳などもあり、そのような歴史経過のつながりから、やはり不動寺などもできたと思えます。

(初回掲載日:2012年6月13日、第二次掲載日:2012年6月19日、第三次掲載日:2012年6月20日、第四次掲載日:2012年6月21日)


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