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福重の名所旧跡や地形

如法寺跡(草場町)
如法寺跡(にょほうじあと) 場所:長崎県大村市 草場町

  この『如法寺跡(にょほうじあと)』の場所は、大村市草場町、字(あざ)女法寺」の地名がある所です。石走川に掛かる草場橋から東へ約280m登った民家周辺で、逆に草場町公民館からならば南南西へ約350m下った所です。(新幹線橋脚から少し離れた東側で、周辺部が丘みたいになっています)

 大村郷村記によりますと、宗旨(宗派)は不明で、寺領は「七石九斗四升」となっています。開山年代は、書いてありません。この寺は、天正年間、キリシタンによる他宗教弾圧事件で破壊されたものです。破壊後は、在家になったと記述されています。(詳細は後の大村郷村記や現代語訳などの項目参照)

 ・如法寺跡は、左写真中央部(広い敷地と大きな屋根のある)民家周辺と思われる。(左側の航空写真はグーグルアースより)



大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した)

如法寺跡の場所について
 如法寺跡(にょほうじあと)』の場所について、まず、右図をご覧願います。この図は、『おおむらの史記』(1982年9月30日、大村史談会青年部・発行)18ページに載っているものです。図の中央部上側(北側)に右側(東側)から東光寺、教通寺とともに如法寺(左側=西側)が、図示されています。

 また、読みは同じながら漢字上は違う、草場町の字(あざ)で「女法寺(にょほうじ)」を考える必要があります。この地名の由来は、明らかに同じ寺である如法寺からと思われます。つまり、現在の立福寺町の由来が、元あった「龍(竜)福寺」の寺院に由来しながらも、漢字が変化したことと同じようなものと思われます。

 ただし、大村郷村記には確かに如法寺蹟と記述されていますが、天正2(1574)年にキリシタンの他宗教弾圧により、寺が破壊される以前は、逆に寺院名が女法寺であった可能性も全く否定できません。先の破壊や焼き打ちによって、この寺の古記録が存在しないので、今となっては、どちらの漢字表記が正しいのか不明とも言えます。

 また、下記項目に書いています大村郷村記には、「草場にあり」と記述されています。あと、今回、場所の根拠で『福重のあゆみ(執筆者:増元義雄 氏、2003年3月1日発行)を引用、参照しています。この冊子には、如法寺跡の場所として個人宅名も書いてあります。この場所の判断内容に至った経過として、「地元伝承含めて調査した」と、私は聞いています。

  なお、この個人宅の敷地裏には、石塔類が一部あります。ただし、これが、大村郷村記に書いてある寺があった当時の「石塔石仏」類か、はたまた後世に家人が建立されたのか、判断できないところも一部あり、どちらも混在しているようです。

大村郷村記内容について
 如法寺について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)133ページに如法寺蹟として記述されています。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。

 念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行もしています。なお、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。

写真中央部の民家周辺が如法寺跡 (左側方向は現在、新幹線の橋脚工事で風景が変わっている。2013年2月23日撮影)

一 如法寺蹟
草場にあり、往古寺地にて、古き石塔・石佛等數多あり、宗旨不知、寺領七石九斗四舛と云、天正年中 耶蘇の徒堂宇破却後在家となる

・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。

 ( )内は、私が付けた補足や注釈です。下段の(注1〜3)も参照願います。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

 < 一つ 如法寺跡 
  (この寺は)草場(郷)にある。 (この場所は)大昔、寺地(と呼ばれている所)であって、古い石塔や石仏などが多数ある。 宗旨(宗派)は、(何宗だったのか)不明である。 寺領(
(注1)は、七石九斗四升(注2)と伝わっている。 (この寺は)天正年間(1573〜1592年)、キリシタンによって堂(建物)が破壊され、その後は在家(注3)となった。 >

(注1):寺の支配してい土地=領地で米の石高で示している。
(注2):1石=10斗=100升=1,000合である。
(注3):在家= 出家せずに、在俗のまま仏教に帰依した人。(国語辞典の大辞林より)

如法寺跡近くから出土した(写真右側から)草場の経筒その1その2(詳細説明は、「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」ページ参照)
 草場の単体仏(注:元あった場所は不明)

如法寺跡近くから出土した草場の経筒との関係
 この項目について、既に大村の経筒」ページに、草場の経筒その1」、「草場の経筒その2として掲載中です。この経筒全体の詳細説明は、先のリンク先ページに紹介していますので、ここでは極簡単に書きます。

 まず、平安時代末期に末法思想が流行り、人々は恐れて各地でお経を入れた経筒経塚(小山みたいなもの)に埋めて祈りました。そして、その目印や信仰目的で大村の場合、滑石製の単体仏経塚の上に置きました。その経典経筒経塚、滑石製の単体仏は、現代では平安末期から鎌倉時代初期を知る上で、タイムカプセル的な意味があり、様々な当時の状況を伝えている貴重な遺物や遺跡です。

 草場町には、上記の中で「草場の単体仏」(1体)と、「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」があります。この単体仏の元々あった場所は、不明です。しかし、「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」の方は、今回紹介中の如法寺跡(民家周辺)から、北東方向へ約150m行った畑の中(如法寺跡より、さらに小高い所にある)から出土しました。

  そのような出土場所や経過から地元の方、あるいは福重郷土史同好会では、この近い距離関係からして、如法寺「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」は、何らかの関係があるのかもしれないと、長年話して来ました。つまり、末法思想が流行した当時、如法寺の住職などが、この2個の経筒を埋めたのではないかと言う仮説です。

 ここからは、あくまでも先の仮説から推測してですが、もしも本説が正しいとするならば、この如法寺の創建は、末法思想(経筒)との関係からして平安時代中期とも思われます。

補足



(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2016年9月8日、第二次掲載日:9月9日、第三次掲載日:9月10日、第四次掲載日:9月11日、第五次掲載日:9月12日、第六次掲載日:9月15日、第七次掲載日: 月 日)


  

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