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2023年、(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話(概要紹介)
(写真1) 手前側:郡中学校1年生、「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話(奥中央部で立っているのは上野)
(写真2)  「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話(中央部は1年生、右側で立っているのは上野)

(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」講話(概要報告)
(写真3) 中央部やや左側は上野へ1年生代表のお礼
 (写真4) 松原小学校の校舎前にある「松原の救護列車の碑
(写真5) 現在の郡中学校の敷地=
第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡
(写真6)  皆同砲台の極一部 (皆同町)  
(写真7) 福重飛行場跡(右側)、今富町 
(写真8) 招魂碑(左側)、今富町
(写真9) 福重砲台跡(地下室への入口)、今富町 
(写真10) 福重飛行場跡近くにある誘導路橋の土台(今富町)
(写真11) 福重飛行場(当時:長さ950m、幅30m)

日時:2023年10月30日 14時35分~ 15時25分
参加数:全体で約240名(生徒233名、先生 名)
講話担当:上野
場所:大村市立郡中学校・体育館

趣旨:郡中学校1年生は、今年11月1日、校外学習「郡地区の戦争遺跡巡り」が予定されている。また、その前の10月24日のガイダンスがあった。そして、10月30日に「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話があった。このページ内容は、。その講話内容(概要)である。

 注:講話時間との関係で、主に空襲の話しをした。その関係で戦争遺跡の内容は、24日にDVDの視聴、配布したリーフレット内容、さらに11月1日の校外学習で直接、遺跡見学をするので説明は、今回省略した。ただし、その内容や写真は、下記の通り掲載している。

講話内容:「郡地区の空襲と戦争遺跡」(概要紹介)
<空襲(主に犠牲者数と火災戸数)>

1)松原地区-----空襲や軍事施設(戦争遺跡)は、ほとんどなかった。ただし、松原地区は他の地区からの疎開先(この場合、空襲地域から逃れて仮住まいしたとの意味)であった。また、松原小学校は、長崎原爆•被害者の救護支援の場所になった。その記念碑も校舎前にある。<注:(写真4)=松原小学校の校舎前にある「松原の救護列車の碑」と、そのリンク先ページを参照>

2)福重地区-----犠牲者11名以上。 この中には年齢9歳の福重小学校の児童もいた。この児童は、1995(昭和20)年7月5日にアメリカ軍機の機銃で射殺された。あと終戦まで1ヶ月少しだった。また、福重出張所の裏山(今富城跡)に防空壕があった。空襲警報が鳴り、10数名が避難していたが、爆弾投下の振動により、上部が落盤して生き埋めになった。その中には、母子3名(幼児2名)も亡くなった。今富町の大神宮にある慰霊碑の「戦災死者」(空襲犠牲者)の氏名を見て欲しい。 火災戸数は41戸以上

3)竹松地区-----犠牲者11名以上。 この中には名前不明の娘さん(たぶん幼児=赤ちゃんか?)も空襲で亡くなった。  火災戸数は117戸以上

 アメリカ軍機は、日本を攻撃(空襲)する所を事前に航空写真で軍事施設を撮影、確認して爆弾を落としていた。つまり、狙って飛行場や軍事施設を空襲していたが、その周辺(誘導路や駐機場)にあった住宅地までも激しい空襲をしたから多くの犠牲者と、火災(戸数)があった。沖田町は、当時、民家は40戸くらいだったが半数近くの家が空襲で火災に遭った。に

<クイズ>
 ここでクイズを出したい。この冊子(「福重の石仏」)をプレゼントする。
Q1:なぜ、竹松・福重地区は空襲が多かったのか? 両地区には、共通してあるものがあったからだ。それは何か?(漢字3文字で答えなさい)
A1:正解は、飛行場だ。竹松には「大村海軍航空隊」、福重地区には「福重飛行場」)があったからだ。

<戦争遺跡(軍事施設の跡)>
 
今回は、講話時間との関係やリーフレットにも書いているし、また、11月1日に史跡の見学もするので、その説明は、省略したい。なお、「福重ホームページ」から用語検索するれば、詳しく掲載中である。念のため、下記はリーフレットの内容や、上野が説明したかった内容の一部である。

1)現在の郡中学校の敷地=第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡。この航空隊の目的は九州北部を攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機へ迎撃戦闘する部隊として1944(昭和19)年8月1日にできて終戦まであった。

 (郡中学校の現在の敷地は目測で南北約220m、東西約180mだが)この「三五二空(草薙部隊)」の全体の敷地は目測で南北約950m、東西約350mあった。誘導路や駐機場を含めれば実際の面積は、もっと広かった。町も宮小路•黒丸•沖田町と広がっていた。なお、戦前当時の三五二空(草薙部隊)」の隊舎と現在の郡中学校の校舎の並びは同じ。元々、学校創立当初は、先の隊舎が校舎(教室)として使われていた。

2)皆同町、福重地区住民センターの裏山=皆同砲台跡は小高い丘の北側部分で南北(横幅)約160m東西(縦)約70mにあった。この砲台の設置目的は、攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機を高射砲で撃ち落とすためにあった。ただし、「実際は、ほとんど当たらなかった」という。 現在、地下室(倉庫弾薬庫指揮所=会議室など)への空気や明かりの採り入れ口の上に、分厚いコンクリートなどが地上に残っていて直ぐに見れる。

3)現在の今富町や皆同町にある細長い農道、耕作地や住宅地=福重飛行場跡(当時、長さ950m幅30mの薄いコンクリート滑走路だった) 未完成ながら滑走路の一部ができたので1945(昭和20)年5月27日に一番機(戦闘機)が飛んだという。現在はコンクリート製の一直線の農道(長さ約890m、幅約2.5m)が残っている。この福重飛行場は、戦前はほとんど使われず、戦後の測量写真撮影のプロペラ機が飛んでいたという。

4)今富町、大神宮の境内にある招魂碑(戦死した軍人、空襲で亡くなった民間人の慰霊碑である) その手前側が顕彰碑で、これに福重小学校の児童の名前もある。 (なお、この大神宮の境内には戦争遺跡とは関係ないが「石割樫(いしわりがし)」や「亀石(かめいし)」もある)

5)今富町の帯取の丘、福重砲台跡(当時、直径約200mの範囲内に高射砲の陣地があったという)。砲台の目的などは上記2)の皆同砲台を参照。現在、砲台跡を示すものは、ほとんどないが、一つだけ「地下室への入口」(写真9参照)がある。これは、市道から見えている。 (この周辺でアメリカ軍の激しい空襲で軍人多数と福重小学校の児童も亡くなっている)

6)今富町、佐奈河内川川床に残る誘導路橋の基礎(丸太の柱穴の残るコンクリートで、今でも頑丈に残っている。大きさは長さ約30m、幅約1m) この誘導路橋の目的は福重飛行場と竹松にあった飛行場(大村海軍航空隊)との間を行き来した飛行機を通す橋(道路)で両側から行き来した場合に接触しないように、または向きを回転させるために使用されたと思われる。今まで草や川よしに隠れて1本しか見えなかったが、昨年の水害で現在は2個も見えているので今の内に見て欲しい。

 (注:竹松地区の空襲や戦争遺跡については、24日のガイダンスで、放送録画を見たので内容は省略する。なお、さらに知りたい方は、「福重ホームページ」内の「大村の空襲、戦争遺跡シリーズ(もくじ)」、大村海軍航空隊」や下原口公園内にある「掩体壕(えんたいごう)(当時の大きさは推定で高さ8m強、横幅約24.5m、奥行15m弱か?)ページなどに詳しく書いている。

まとめ
 空襲は、大村や郡地区であった。それは、まさしく「戦場は身近で、空襲は住宅地まであった」ということだ。このような犠牲者や空襲を繰り返すより、いつまでも平和であって欲しい
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<質疑応答>
 上記の講話の後、下記のような質疑応答があった。
Q1:郡中学校は、被害に遭ったのか?
A1:戦前、郡中学校は、まだ、できて(開校)していなかったので学校としては被害に遭っていない。ただし、郡中学校が、できる前の「三五二空(草薙部隊)」当時は、アメリカ軍に対する迎撃戦闘機部隊だったので空襲を受けている。近くの沖田町内では、当時約40戸しかなかったのに、半数近い16戸の民家が空襲被害(火災)に遭っている。竹松町、宮小路町、鬼橋町なども空襲被害を受けている。

Q2:リーフレットなどを作成したのは、どんな思いからか?
A2:私は戦後生まれながら子どもの頃から、空襲により戦争(戦闘)とは無関係な赤ちゃん、子供も犠牲になったり、民家も燃やされてきたことを年配の方から教えられてきた。大人になり航空界で働いたが、湾岸戦争などがあった時、運航便が無くなったり、お客様の利用が減ったのも覚えている。

 広島・長崎原爆は、世界史的な悲劇で多く語られている。大村や郡地区での空襲犠牲者も悲劇だ。それは、地元の者が語り継いでいかなければとも思った。そのようなことを知ってもらう思いも込めて、このリーフレットや冊子の作成などをしてきた。皆さんは、将来何かしてみたい夢があると思うが、戦争になれば戦地に行く場合もあれば、また大村にいても空襲に遭う可能性もある。ずっと平和でないと、夢は実現しないかもしれない。


Q3:松原には、なぜ飛行場などがなかったのか?
A3:それは平地が少なかったためと思われる。飛行場は滑走路だけでなく、離着陸の時、近くに山とかがあれば難しい。そのような広い敷地が、松原には無かったからと思われる。

Q4:長崎市内の防空壕の数は?
A4:長崎市内は調べていないが、沢山あったと思う。大村の松原や福重には、防空壕が造りやすい尾根や丘も多いので、町内用とか民家用の小さな防空壕が、たくさんあった。特に、農家には一戸に一防空壕があった位だ。

<生徒代表のお礼の挨拶>
 1年生代表から、丁寧なお礼がありました。また、その後、1年生全員起立して、上野へ「ありがとうございました」とのお礼の言葉もあった。 以上にて、今回の講話は、全て終了した。
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*関係ページ:10月30日の講話や11月1日の校外活動(戦争史跡巡り)と関係した事項のリンク先は、下記の通りである。なお、一部、戦争遺跡とは全く関係ない名所旧跡(めいしょきゅうせき)内容もある。なぜなら、それは、戦争史跡の直ぐ横、もしくは近くにあるので、参考までに紹介している。)

<福重地区>
 ・沖田町---第三五二空(通称「草薙部隊(くさなぎ ぶたい)(戦闘機の迎撃部隊)現・郡中学校の敷地から宮小路周辺までの敷地(写真1を参照)

 ・皆同町---<福重橋> <今富城跡>、皆同砲台(海軍指揮所と思われる地面上部で空襲対策のコンクリート屋根・空気採り入れ口など) 、 (皆同町側の)福重飛行場跡(使われていた当時は長さ950m幅30mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない.。「(皆同町側の)史跡説明板」あり )、  <皆同の侍の墓

 ・今富町---(皆同町~今富町)福重飛行場跡(使われていた頃は幅30m、長さ950mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない。滑走路全体の長さで今富町側の方が約80%であった。「(皆同町側の)史跡説明板がある。 佐奈河内川の川床には現在も誘導路橋の橋脚を支えた丸い穴がいくつもあいた頑丈な幅約1m×長さ30m弱のコンクリート製の基礎部=土台部が残っている) 、 

 <佐奈河内川の今富橋周辺は2020年の水害で大被害が遭った> 、<尾崎城跡(おさきじょうあと) 尾根部の先端所で一説では豪族の今富氏の居城で本丸から三の丸まであった城ともいわれている> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑

 <大神宮>、<亀石>、<石割樫>、招魂碑(氏名が彫られた石碑には軍人だけでなく空襲で犠牲になられた民間人の名前もある) 、<黄金山古墳> 、<今富キリシタン墓碑> <中田橋周辺の市道(通学路でもある):2020年水害時にアスファルト舗装がめくれるほどの被害が出た。この周辺の水田も被害が大きい

 今富橋(今富公民館)周辺の尾根や、字(あざ)丸山」や市道脇6つの隧道(ずいどう)などには21航空廠廠の疎開(そかい)工場倉庫があった。防空壕にしては少し大きかった。



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