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福重郷土史同好会
2019年の活動報告(11)

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2019年9月7日、(東京にて)長崎県大村市 福重の石仏の講話(概要報告)
(写真1) 日本石仏協会・談話室、上野が講話中の模様(場所は東京芸術劇場・小会議室) 
 (写真2) 滑石製平安仏の3体並び(弥勒寺町)  (写真3) 下八龍の線刻石仏(弥勒寺町)
 
<(写真4) 東京芸術劇場の建物(写真下部が玄関)
 (写真5) 仏頭1(弥勒寺町)
(写真6) 草場の単体仏<滑石製平安仏>(草場町)
(東京にて)「長崎県大村市 福重の石仏の講話(概要報告)
日時:2019年9月7日13時10分〜14時40分
場所:東京芸術劇場・小会議室
(池袋駅西口下車徒歩3分)
主催:日本石仏協会
参加
26名 
担当:上野

注1:最上部写真は中野氏から提供して頂いた。
注2:上野の講話中は映写すライトと配布資料をもとに話したが、一部において冊子「福重の石仏も活用した。


講話の概要:

 注:石仏の講話の前に大村市(地図や郷土料理など)や福重地区の紹介(「フルーツの里・福重」など)をおこなったが、本ページは省略している>

福重・松原の古い石仏の概
(1)古い石仏が多い、約30体。(2/3以上が大村市弥勒寺町にある)
(2)狭い地域に古い石仏群は九州でも長崎県内でも珍しい。(九州では国宝臼杵の石仏が有名)
(3)「謎の線刻石仏」含めて分からないことも多い。

石仏の種類と年代
 下記の建立年代は仏像専門家によって様々な説があるため最大公約数で表現している。そのことから、年代幅が広くなっている点は、ご了承願いたい。一部の種類を除き(2019年現在)、建立年代は確定的にはいえない。

1)滑石製平安仏-----平安末期〜鎌倉初期

2)線刻石仏---------平安末期〜中世時代

3)線刻不動明王像---鎌倉初期か中期

4)仏頭------------中世時代

5)六地蔵----------戦国時代

石仏の 「古い」「新しい」の境目年
 1574(天正2)年が、その境目年である。<戦国時代、大村純忠の頃>
(1)この年、キリシタンによる他宗教弾圧事件発生(仏教僧侶の殺害、寺社の焼打ち、略奪、木や石の仏像の破壊、古文書類が燃やされた)

(2)この境目年より古い石仏は、種類も数も表情も豊かである。

(3)新しい石仏は、まるで既製品・大量生産されたような石仏が多い。(ただし馬頭観音は除く)

なぜ石仏が多いのか?
1)仏教寺院が沢山あった。(大村市北部=下記の図Aを参照)
  ・福重・松原・竹松で22寺院あった。
  ・福重地区だけでも述べ16寺院あった。

2)福重・松原は、穀倉地帯で財力があり、多くの寺院と石仏を造りだした。
図A郡地区(大村市北部)にあった(古代〜中世の)寺院群 (写真7) 線刻不動明王像(弥勒寺町)
冊子「福重の石仏表紙も同様>

(図B) 注:経塚、経筒、単体仏も縮尺は実際と違う。
上記、経筒が壊れないように周囲に石の天井板、
側壁、小石で囲んだ想像図である。
 
(写真8) 清水の線刻石仏 (弥勒寺町)
 
  (写真9) 仏頭2 <未完成?>(弥勒寺町)
 
(写真10) 野田の六地蔵 (野田町) 
1)滑石製平安仏
  <注:滑石製平安仏は、(写真2、6)と、右側の図Bを参照>
(1)福重・松原に合計9体が現存している。
(2)建立年代は平安末期〜鎌倉初期といわれている。
(3)西彼杵半島産出の滑石と推測されている(西彼杵半島は日本有数の滑石の産地)
(4)経塚の上に乗っていたと推測される。(右側の図B経塚の想像図である)
(5)大きさ:高さ22〜43cm、幅15〜23cmである。

・滑石製平安仏が経塚に乗っていたのは、信仰と目印のためである。これは、北部九州の特徴と思われる。
・大村と佐賀県に10数体
・北部九州に合計27体
・全国には滑石の産地の関係から、滑石製平安仏の例が少ない。
 (注:大村市内に6個の経筒が現存。内5個が福重から出土している)

 補足:末法思想の流行時(平安末期から鎌倉初期)に建立された経筒滑石製平安仏が、これだけ多く大村に現存しているということは、すなわち松原や福重にあった古代仏教寺院が、新しくても平安時代中期か後期前までに、5〜6寺院並び立っていないと、数字的(考古学的)にも合わないことを教えている。

2)線刻石仏
  <注:線刻石仏は、合計16体(弥勒寺町に12体、福重町に1体、武留路町に3体)現存している。(写真3、6を参照)>
(1)加工しにくい自然石に線で彫られた石仏である。
(2)納衣(のうえ=粗末な衣類)の下で(きょうしゅ=中国式敬礼)は、共通した姿である。
(3)合計16体で、光背があるのが3体のみで、あとはない。 蓮華座は、全てない。
(4)高さ54cm〜137cm、幅45cm〜123cm。
 (写真3、7を参照)

・「謎の線刻石仏」とも呼んでいる
(1)一見すれば如来系石仏だが、拱手(きょうしゅ=中国式敬礼)の姿は、神像または神仏習合像を表していると言う。(上野個人の推測ながら光背のある3体は如来系、あと残り13体全部は神仏習合像ではないかと思っている)

(2)全国にも、この姿がない訳ではないが、狭い地域に16体もあるのは珍しいといわれている。

(3)私達は、「謎の線刻石仏」とも呼んでいる。

3)線刻不動明王像
  <注:線刻不動明王像は1体のみで弥勒寺町にある。(写真7参照)>
(1)建立は、鎌倉時代の初期か中期の説あり。
(2)県内では、最も美しい線刻不動明王像。
(3)現代の加工技術で自然石に造れないと言う。
(4)石(像)の大きさ:高さ168cm、横幅78cm

4)仏頭
  <注(2019年1月現在)未完成含めて仏頭は合計3体で、全て弥勒寺町にある。(写真5、9を参照)>
(1)建立は中世時代か? 様々な説あり。
(2)完成形の仏頭1の高さ約90cm、幅約80cmの大きさは、全国でも少ない。(頭部のみの建立なら最大級か?)
(3)仏頭のみが造られた珍しさもあり。
(4)加工しにくい大村の石である。

未完成の仏頭もあり
(1)仏頭は合計3体(2019年1月現在)あり。
(2)完成形が1体、未完成が2体あり。

5)六地蔵
 <注:冊子「福重の石仏には2体しか掲載していないが、実際は福重地区だけでも5体程あることは確認している。(写真10を参照)>
(1)六地蔵(六面地蔵、六体地蔵)の建立は、戦国時代といわれている。
(2)キリシタンによって破壊されたため、完全形の六地蔵はない。
(3)ただし、六面部分(本体のみ)は、福重だけでも5体以上ある。
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線刻石仏のCG (画像処理)について
 私が作成している「福重ホームページ」や、冊子「福重の石仏しかに多数掲載している線刻石仏CG写真について、下八龍の線刻石仏を例に挙げて(下記画像を参照)3枚の写真で説明したい。

(1)実物の写真------石仏の模様線が肉眼では見えにくい。
(2)拓本写真---------模様線が少し見える程度。石の割れ目なども表示される欠点がある。
(3)CG写真-----------鮮明かつ正確に模様線が表現される。


 つまり、火山で出来た大村の石(良い石ではない)なので、普通の実物写真でも、拓本でも石仏模様線が全体鮮明に表示されない。そのため、私は、CG線で表現している。CGは、作業に長時間かかる短所はあるが、その分、線刻模様線の鮮明度や正確性においては、拓本以上である。

 あと、線刻石仏をCG模様線で表示している例は、上野調べながら現在のところ「福重ホームページ」か、この冊子「福重の石仏しか使われていない。誰でもできるCG技術なので今後、仏像専門家、歴史愛好家などに広まればいいなあと、願っている。

質疑応答<Q&A>と感想など
 この項目は、講話の質疑応答時間、プラス休憩時間や懇親会で頂いた質問や感想も含めて、順不同で概要のみを下記に書いている。また、同種同内容は、まとめてもいる。なお、講話では石仏関係リンク先の紹介はしなかったが、このページでは補足として、各項目のリンク先も記載しているので、ご参照願いたい。

古墳の中にある石走の線刻石仏(大村市福重町)
仏頭3(大村市弥勒寺町)
キリシタンに殺害された峯阿乗の墓(大日堂)
(大村市寿古町)
Q1:福重の古い石仏は、全国的にも珍しいと思う。
A1:長崎県内の歴史といえば、そのほとんどがキリシタン研究ばかりで、今まで仏像はあまり取り上げられていないので、県内でも全国でも知られなかったと思う。今後は、この分野も研究が進めばと願っている。

Q2:福重の線刻石仏(納衣の下で拱手した姿)似た石仏が、韓国の雲住寺にある。その石仏写真が載っている本を贈呈する。また、現地に行って調べたい。
A2:感謝したい。長崎の位置関係からして奈良(京都)経由ではなく、中国や朝鮮半島から仏像が直接入ってきたことも否定はできないかもしれない。またの情報をお願いしたい。

Q3:滑石製平安仏が、なぜ多いのか?
A3:大村(現存9体)や、隣の佐賀県にも滑石製平安仏がある。これは日本有数の滑石の産地である西彼杵半島が近くにあったからと推測される。滑石は爪でも傷が付くくらい柔らかいので石仏を加工しやすかった。それで滑石製平安仏が、多かったと思われる。当然ながら、滑石の産出が近くにない所では、造られなかった石仏だろう。

Q4:滑石製平安仏の(経筒・経塚の上に乗っていた)根拠は?  経塚の上に別のものが乗っていた例はあるが、石仏があった例は珍しいのではないか。
A4:大村に滑石製平安仏(単体仏)が9体滑石で造られた経筒が現存6個ある。だが、残念ながら経塚は全て壊されているので、その実物の写真や図としては示せない。しかし、仏像専門家によると佐賀県にも同じ例があること、滑石製平安仏ではないが経塚に石塔などが乗った全国例もあるので、私は末法思想流行時、大村や佐賀の場合、滑石製平安仏(単体仏)が、経筒経塚とともに造られ、その上に乗っていたと考えている。<上記に掲載の図B経塚の想像図と、「滑石製平安仏(単体仏)とは」のページを参照 >

Q5:先ほど『如法寺や弥勒寺は経筒の製造工場みたいな寺院だった』と発言されたが?
A5:このことは、(福重の石仏を調べられた)仏像専門家から聞いた。実際、如法寺跡(大村市草場町)近くから「草場の経筒その1その2その3」と、3個(基)も出土している。<詳細は大村の経筒」ページを参照>

Q6:滑石製平安仏(単体仏)は、弥勒菩薩か?
A6:長年の雨水や雪で尊像(種類)が分かりにくいが、弥勒菩薩系の石仏と推測している。ただし、智拳印(ちけんいん=手の形)の結び方が通常と逆みたいな単体仏もあったり、摩耗が激しいため像全体が分かりにくい石仏もある。今後も専門家の意見や調査を待ちたい。

Q7:キリシタンによる寺社の破壊の件は、初めて聞いて驚いた。どんなことだったのか?
A7:天正2年(1574)にあったキリシタンによる他宗教への弾圧事件<仏教僧侶の殺害=峯阿乗の墓(大日堂)、寺社の焼打ち、木と石の仏像破壊、古記録類の焼却など>は、当時キリシタン大名だった大村領だけではなく、長崎県内では同時期同様に島原の有馬領でも起こっている。この事件の要因は、「(当時の)キリスト教・教義の一神教と、その排他性から来ている」と専門家は言っておられる。<補足:このキリシタンによる寺社破壊攻撃の詳細は、「長崎県考古学会大会2007年度大会」でも、その報告があった>

 この事件は、大村の場合、大村市教育委員会発行の書籍類に歴史的事実として正確に記述されているが、県で発行されている本や、県内マスコミ報道では、ほぼ語られたことがない。それは、あった歴史事項よりも関係者への配慮=忖度(そんたく)の姿勢から来ていると考えている。だから、(全国の)皆様は知らなかった歴史と思う。私は、歴史事項はアンフェアに偏った表現ばかりするのではなく、どちらも出来るだけ公平にすべきと考えている。

Q8:現地での石仏案内はしてもらえるか?
A8:歓迎したい、是非どうぞ。

・久しぶりに大村の話が聞けた。
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<上野より聴講して頂いた皆様へ、お礼>
 まず、今回の「福重の石仏」講話に来て下さった皆様、大変ありがとうございました。特に、私のような者を、お招きして頂いた主催者の日本石仏協会・会長はじめ役員の皆様には、準備、本番、後片付けと、本当にお世話になり、深謝申し上げます。

 また、大村高校東京同窓会の皆様、聴講ありがとうございました。(不慣れな場所で、同郷の方にお会いできたことは嬉しいことでした)

 改めて来場された皆様、何かの機会ありますれば、つたない上野の案内・説明しかできないかもしれませんが、「フルーツと石仏の里・福重(長崎県大村市福重地区)にいらっしゃって下さい。歓迎いたします。最後に、日本石仏協会の皆様、今後とも、ご指導ご鞭撻をお願いいたします。

 ・石仏関係ページ:「CG石仏写真(もくじ)」  「仏の里・福重(もくじ)」  「滑石製平安仏(単体仏)とは」  冊子「福重の石仏

・関係団体ページ:主催:日本石仏協会  、 (聴講して頂いた)大村高校東京同窓会

初回掲載日:2019年9月9日、第二次掲載日:9月12日、第三次掲載日:9月14日、第四次掲載日:9月15日


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