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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 如法寺跡と草場の経筒三基

(史跡説明板)如法寺跡と草場の経筒三基
 名称:如法寺跡と草場の経筒三基  様式:説明板
 場所:草場町の市道脇  設置者:草場町内会、福重地区活性化委員会
 設置年:2022年3月1日  GPS実測値:32度58分11.39秒 129度56分51.55秒
 全体の大きさ:高さ100cm、横幅70cm  国土地理院の地図  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°58'11.39"N,129°56'51.55"E
(写真1) 中央部の白板:「如法寺跡と草場の経筒三基」の史跡説明板 <大村市草場町>(撮影:2022年4月3日)
この右側方向に大村市乗合タクシー「草場町」停留所がある。、上記の説明板の奥側周辺が如法寺跡である。 

注1:如法寺跡は上表の通りだが、ここから北東部に100数十メートル行った所(現在、畑と一部住宅地)から、「草場の経筒その1草場の経筒その2草場の経筒その」が発見された


(写真2) 赤いAがある左中央部:個人宅周辺が如法寺跡

(写真3) 左から草場の経筒その1の2その3

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、上部の(写真1)中央部の白板が、如法寺跡と草場の経筒三基の史跡説明板です。説明板の手前側は、市道です。ここから右側(北側方向)へ約10メートル行った所に、大村市乗り合いタクシー「草場町」停留所と、小さな郵便ポストがあり、良い目印となってます。

 そして、そのポスト横の三叉路から大村湾側(西側)方向へ数十メートル下ると西九州新幹線の橋脚下、次にJR大村線の踏切、さらに国道34号線となります。逆に、国道から今回の史跡説明板を目指されるならば、先の新幹線橋脚下をくぐり抜けると、先の三叉路の右側(南方向)に史跡説明板はあります。

・如法寺のあった場所について
 如法寺は、地元伝承で昔から史跡説明板(写真2の赤いAの所)の左側(西側)にある個人宅もしくは、その周辺だったといわれてきました。また、この周辺には、漢字違いながら(あざ)女法寺」があり、この寺院名から地名が付いたと思われます。あと、この寺院周辺は、大昔から現在まで穀倉地帯(水田多い)です。

・草場の経筒三基の発見場所について

 まず、(写真2)中央部の赤いA史跡説明板の位置に、ご注目願います、そして、この場所から、やや東北東部(写真2では右側上部方向)にある住宅地や畑から戦前戦後頃に草場の経筒三基が土地所有者の田丸氏によって発見された場所です。また、同じ場所から経筒が3基(個)も出土したことは、大村市内でも長崎県内でも珍しいことといえます。

 先の経筒三基には、次の名称があります。それは、次の「」内です。「草場の経筒その1」 「草場の経筒その2」 「草場の経筒その3」(詳細な説明は、先の「」内リンク先ページを参照)  なお、大村市内で現存6基(個)の内で、その建立年が判明しているのは、「箕島の経筒」だけです。その建立年は、文治元年(1185)です。これは、平安時代末期で古代の経筒です。

 先の「箕島の経筒」(1185年の建立)より、「弥勒寺の経筒」と、「草場の経筒その1の2その3」方が古いタイプです。つまり、先の4基(個)は、どれも平安時代後期~末期のものです。ご参考までに、「草場の経筒その1の2その3」は、とともに佐賀県の重要文化財になっていっる滑石製の経筒平安時代後期の嘉保3年(1096)の建立>と、形や大きさも良く似ています。

史跡説明板の内容

 このページ(写真1)の中央部に写っています如法寺跡と草場の経筒三基の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

(写真4) 如法寺寺跡と草場の経筒三基の史跡説明板内容

< 如法寺跡と草場の経筒三基
 如法寺跡の場所は字「女法寺」で堀氏宅周辺である。郷村記によると、「大昔、寺地で古い石塔や石仏などが多数ある。宗派は不明、寺領は七石九斗四升。天正年間(一五七三~一五九二)、キリシタンによって建物が破壊された」とある。

 正確な創建は不明だが「紫雲山延命寺縁起」には久寿ニ年(一一五五)に唐泉寺の住職春輝が提唱して郡地区の十四か寺が宗論を交わしたが、その中に如法寺も参加している。

 また、仏像専門家の説では「如法寺の寺院名は全国的に末法思想流行時(平安時代後期〜鎌倉時代初期)に経塚(経筒)を多く造った寺院の一つ」という。同所周辺には経筒三基や滑石製平安仏があることから如法寺の創建は早ければ平安時代後期には既に存在していたと推測される。

 「草場の経筒三基(その1、その2、その3)」が、当寺の北東側方向(現在の住宅地や畑)から戦後間もない頃に田丸氏によって発見された。この経筒は経塚に経典を納めるもので前述通り、末法思想流行時に如法寺が関係してつくられたと思われる。大村市内には合計六基の経筒が現存するが、その内三基が同所から出土したのは珍しいことである。

  二〇ニニ年三月一日
  草場町内会・福重地区活性化委員会 >

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・草場の経筒三基の建立年代などについて
 上記に草場の経筒三基の概要は、書いているし、さらに詳細には「草場の経筒その1の2その3」の各ページにも、既に掲載中である。ここで主に補足をしているのは、なぜ、如法寺跡近くから出土・発見されたのか、建立年代は何時代頃かである。


(写真2) 赤いAがある左中央部:個人宅周辺が如法寺跡

(写真3) 左から草場の経筒その1の2その3

 まず、2017年2月4日に開催された第4回福重郷土史講演会の時、講師の竹下正博 氏は、如法寺弥勒寺も関係している福重・松原地区に現存している9体の滑石製平安仏について、概略次の「」内のような話をされた。 「この石仏は末法思想で造られた経塚(経筒を埋めた小山)の上にあったか、中にあったものである。福重や松原で、これだけ多くの同じ石仏があるということは、末法思想が流行する平安末期より、ずっと以前から大村にも仏教寺院が多くあり、仏教文化が栄えていたことを示す。」

 「全国に同名の弥勒寺如法寺があるが、共通して末法思想流行時に経筒や経塚を造った」 現在の大村市内や長崎県内で同じ畑周辺から経筒三基も出土したことは、大変珍しいと思われる。しかし、先の「」内の通り、全国の同名の寺院周辺から出土となると、それは当然の事例ということである。

 あと、建立年代について、「草場の経筒その1の2その3」にも「弥勒寺の経筒」には、建立年を示す紀年銘や古記録類がない。しかし、前の経筒4基は、「箕島の経筒」(文治元年(1185)=平安時代末期)より、明らかに古いタイプである。また、草場の経筒三基は、現在、佐賀県立博物館に所蔵されている「佐賀県重要文化財 杵島郡大町町大谷口仏法堤経塚出土」の滑石製経筒に、姿形も大きさも良く似ている。そして、この経筒建立の説明文として、「平安時代後期の嘉保3年(1096)に埋納された経筒であることが知られる」とある。

 ここからは、上野のの推測である。草場の経筒三基も、先の佐賀の経筒の建立年=嘉保3年(1096)と、建立年代は大差ないと考えている。そして、経塚の脇か上に乗っていた滑石製平安仏も同年代の建立であろう。なお、大村の仏教寺院や石仏についての従来説は、ほぼ全て「中世仏教寺院」とか「中世石仏」といわれてきた。しかし、それでは、先に述べたの考古学的視点からしても建立年代が合っていない

 むしろ、経筒経塚滑石製平安仏と関係している寺院をはじめ、紫雲山延命寺縁起に記述され久寿2年(1155)の宗論に参加した寺院や、参加はしていないが紫雲山延命寺など、郡地区の多くの寺院は、遅くても平安時代中期頃までに創建されたものであろう。つまり、郡地区にあった寺院の多くは、古代仏教寺院であろう。

・補足
 
 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『』  、大村の経筒シリーズ:『草場の経筒その1』、『草場の経筒その2』、『草場の経筒その3

(初回掲載日:2022年5月2日、第二次掲載日:5月11日、、第三次掲載日:5月14日、、第四次掲載日:5月22日、、第五次掲載日: 月 日、)


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