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福重の名所旧跡や地形

弥勒寺の陽林(弥勒寺町)
弥勒寺の陽林(みろくじのようりん) 場所:長崎県大村市 弥勒寺町

  大村市弥勒寺町の弥勒寺町公民館の敷地内に自然石の石塔があります。(左側写真参照:文字の白線部分はCG加工) これについては諸説あるのですが、今回、大きさや書籍類に書かれていることなどを中心にご紹介します。

石塔の大きさや特徴
 弥勒寺の陽林の大きさは台座を除いて高さ約204cm、横幅約98cmです。左写真でお分かりの通り、自然石です。上部のやや中央より左側部分に陽林の文字が彫ってあります。

 この陽林の文字は、大きくて肉眼でもはっきり分かります。この文字以外には今のところ判明していないようです。なお、大村郷村記には、この陽林のことを指しているのか、どうか分かりませんが、「地蔵 石立像 例祭不知」と言う記述もあります。

弥勒寺の陽林
 まず、この石塔の紹介文では大村市の文化財(改訂版)<大村市教育委員会、2004年3月発行>と言う本には、弥勒寺跡について以下のように紹介されています。次の< >内が、その引用で、「弥勒寺の陽林」に関しての記述は太文字にしています。

 < 弥勒寺町公民館の裏手の水田の所にあった寺院です。郡七山十坊の一つで、建てられた時期は不明ですが、平安時代後期には寺の名が出ています。寺領21石といわれ、初め真言宗であったのが、貞治5年(1366)禅宗に変わっているようです。天正2年(1574)キリシタンによって壊されました。

 江戸時代になって、寺の名が地名となって残り、郷名となり、現在も町名となっています。3代藩主大村純信の時の.正保4年(1647)堂を建て、弥勒菩薩を祭り、寛保2年(1742)再建されました。

 幕末の拝殿は2間(約3.6m)×2間半(約4.5m)の茅ぶきで、境内は東西11問(約20m)南北9間(約16m)で、薬師如来も祭られ、他に屋敷が3畝(約300u)ありました。寺跡を寺屋敷・七山屋敷といいます。

 すぐ横の公民館の敷地内に、「陽林」と刻んだ大きな自然石が建っています。これは地蔵菩薩のことだといわれています。また「不動明王」と線刻した自然石が建っており、鎌倉時代のものといわれていますが、ともに弥勒寺との関係ははっきりしません。なお、現在弥勒菩薩・薬師如来は、同じ町内の個人宅に祭ってあります。   (引用終了)

 以上の紹介文に、「陽林」=地蔵菩薩と記述されていますが、なぜ「地蔵菩薩」なのか詳細は不明のようです。また、この石塔は、「誰かの墓碑ではないか?」との説もあります。どの説も決定的な根拠がないようです。

上野の補足
 上記の太文字部分以上に書籍類での陽林の紹介文はないようです。ただし、この石塔紹介文が(大村郷村記を参照されたのかもしれませんが) なぜ「地蔵菩薩」なのか、素人目に良く分からないものです。

 あと、諸説ある中で、これから述べることはあくまで推測なのですが、この寺院で「力や功績のあった僧侶(住職みたいな人)の墓碑ではないか」との意見が地元であることも参考程度に、ご紹介しておきます。(その当時の時代は、弥勒寺が戦国時代のキリシタンによって破壊・焼き打ちにあう以前と推測されます)

 また、上記以外にも説があります。これらの件については、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページの「陽林」項目に詳細を書いていますので、ご参照願います。

弥勒寺の寺院跡や石造物関係ページ
漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?
弥勒寺跡
仏の里 福重
不動明王
弥勒寺の妙見菩薩

(初回掲載日:2009年1月1日、第二次掲載日:2013年11月5日)


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