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現代の新建造物
 板敷櫓(いたじき やぐら)
中央部が板敷櫓、左下部は南堀、奥側は大村湾、この周辺全体は大村公園 (上記写真は2004年4月2日、東側から撮影)

板敷櫓(いたじき やぐら)

板敷櫓(2020年12月12日、南側から撮影)

 注1:「新編 大村市史第二巻 中世編(本件の元々の資料は大村市教育委員会の発掘調査)によれば板敷櫓は、玖島城1599(慶長4)年に築城されて以来、その存在が無かったものである。(詳細は後記を参照) つまり、玖島城とは、関係のない1992年にできた新しい建造物(展望台みたいなもの)である。

 注2:上記のことから旧石器時代(野岳遺跡など約13千年前)から人の歴史がある大村市内においては、その時間軸からして板敷櫓は新しい建物であり、「大村の古い歴史の象徴」とか「櫓が再建された」みたいな表現は、大間違いである。(詳細は後記を参照)

板敷櫓の名称・場所・建築年・大きさ・仕様など
 念のため、下記のデータは、大村市河川公園課から頂いた竣工当時に配布された冊子や説明を上野がメモした内容で書いています。そのため、参考程度に閲覧願います。もしも、引用されるならば、必ず再調査をお願いします。
板敷櫓(2020年12月12日、北西側から撮影)
名称:板敷櫓(いたじきやぐら) 注:櫓名は地名から。ただし。と呼称されても玖島城跡とは関係のない現代の新建造物(新展望台)の名称である。
建築年:1992(平成4)
場所:大村市玖島1丁目(大村公園内)

<大きさ>
・高さ:建物の最高部:11.40m (櫓台の石垣の高さは11.7m)  つまり、地上面から最高部まで約23mである。
・2階の屋根の一辺の長さ:目測で南北間が約10m、東西間が約11m(最大幅)

・床面積:1階は77.28u、2階は40.80u 合計118.08u

<内外の仕様>
・木造2階建(本瓦葺)
・出窓の数:1階に6ヶ所、2階に4ヶ所、合計10ヶ所
・石落としの数:1階の南側に2ヶ所
・壁構造:外壁、内壁は漆喰塗(しっくいぬり)

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 (後半項目は調査中。。しばらく、お待ち下さい)


i緯度経度などについて

  (この原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)

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なぜ「現代の新建造物(新展望台)」と呼ぶのか
 考古学の視点からも板敷櫓は玖島城の築城以来なかった
 この項目は、重複しますが本ページ冒頭、<注1:「新編 大村市史第二巻 中世編(本件の元々の資料は大村市教育委員会の発掘調査)によれば板敷櫓は、玖島城が1599(慶長4)年に築城されて以来、その存在が無かったものである。>と書いています。その理由は、この板敷櫓=現代の新建造物(新展望台)を建築される前に大村市教育委員会は、その建設予定地の発掘及び調査をされました。
板敷櫓のない本来の玖島城(石垣)(写真は増元氏のご親戚から提供)
現在の状況(2006年4月3日撮影)

 その結果、全国でも城と関係した各種の(やぐら)の跡ならば必ずと言って良いほど、例えば屋根瓦(やねがわら)柱石金具類などの内、何かが出土します。しかし、この板敷櫓建設予定地からは、櫓跡を示す遺物(いぶつ)は出なかったそうです。つまり、板敷櫓は、玖島城が1599(慶長4)年に築城されて以来その存在が無かったのです。

 一般には、これを考古学上の根拠とか証明といえるでしょう。この「考古学の証明や根拠」だけでも、現在、大村市内や長崎県内で、まるで常識か市のキャッチフレーズみたいな「大村の古い歴史の象徴」とか「櫓が再建された」みたいな表現は、大間違いです。次に、古い絵図にも板敷櫓が描いてないことを見ていきます。

古い絵図にも描かれていない板敷櫓
 上記の考古学(発掘調査結果)についで、次は古い文献(書籍類や図)から見ていきます。まず、その内容を述べる前に、先に下記2枚の絵図を閲覧願います。

 大村藩領絵図」の玖島崎周辺(江戸時代、上野説で1750年の前後頃のものか)
玖島城の絵図(「2012年、大村市立史料館 特別展 懐古・知新」展のパンフレットより複写)

 上側が大村藩領絵図で、江戸時代に大村藩が大村領全体を測量して作図された、ほんの一部分です。(大村領全体の実物は大広間で見るほどの巨大な絵図と聞いている) その年代は、「大村藩領絵図」ページにも書いていますが、この絵図は「従来の1800年頃を中心とした説」より、上野説で数十年か、50年位(1750年)早くできたものと推測されます。

 また、下側の玖島城の絵図の方は、明治維新後でおこなわれた(1871年頃の)廃藩置県で一時期、この玖島崎や玖島城跡周辺が大村県の県庁になりました。その大村県の県庁時代の頃に、この玖島城の絵図は作図されたと言われています。上側と下側の2枚の絵図を見て、ともに今回紹介の板敷櫓が描かれていないのが良く分かります。

 つまり、現代建築の新しい展望台みたいな板敷櫓は、玖島城全く関係がないばかりか、大村市内や長崎県内、あるいは報道関係でもキャッチコピーのように沢山使われている「玖島城の再建された櫓」とか、「大村の古い歴史の象徴」や「大村市の象徴」みたいな言葉が、いかに大間違い表現であるか、この絵図を見ただけで誰でも直ぐに理解できるものです。


 次に、江戸時代に編さんされた(大村)郷村記などを見ていきたいと思います。

   (この中間部。後半部の原稿は、準備中です。しばらく、お待ち下さい)




補足



 (この原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)

 

初回掲載日:2021年1月26日、第2次掲載日:2023年2月18日、第3次掲載日:3月2日、第4次掲載日:2024年3月6日、第5次掲載日: 月 日

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