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草場の二体仏
写 真
所在地:長崎県大村市草場町、松尾神社


 この草場の二体仏は、大村市草場町、松尾神社(まつのおじんじゃ)境内にあります。(注:松尾神社については、ここからご覧下さい) 石仏の大きさは掲載写真の左側(女性と思われる)高さ27cm、横幅20cm、奥行き13cm  右側(男性と思われる)高さ27cm、横幅23cm、奥行き13cmです。制作年代は、江戸時代の中期もしくは後期頃だろうと言われています。分かっているのは以上です。

 あと、なぜ松尾神社に二体仏があるのか大村郷村記などには書かれていません。ただし、私が調べた地元の古老のお話と郷村記の記録といくつか一致していることが分かりましたので、下記に私の推測や感想含めて補足を書いています。次もご一読して下さる方は、この点ご了承の上、見て頂けないでしょうか。

(補足内容)
1)大村郷村記に「田の畔にある石仏」のことについての記述がある。

  大村郷村記、福重村の「寺社之事」の項(復刻版55ページ下段。実物は縦書き)に次の「 」内の記述(太文字)があります。

 「  同所(上野注:前の項目からの続きで東光寺のこと。東光寺は以前、福重村だった)    一 石仏 弐体石ニ切附本知不知祭無 右は田の畔にあり  」

   上記を現代語訳すると次の< >内の通りと思われます。   (字)東光寺に石仏が一つある。石で切りつけられた(石で作られた)二体である。(ただし)由緒は知らないし、祀られていない。 (右の石仏は)田んぼの畔にある。 

2)地元伝承で「東光寺跡と出口平とのあいだの田んぼ畔に石仏があった」と言う。
 この二体仏のことかどうか確定的に言えませんが、草場町(馬込水神様=馬込水源)の上側に住んでおられる方から、概要次のことをお聞きました。

  「ここ(自宅)から東光寺跡に行く手前付近、馬込水源のある出口平(でぐちびら)の先の方の田んぼ畔(あぜ)に仏様があったと聞いた。今その仏様が、どこにあるのか知らない」 (上野注:指さされた位置は、東光寺跡近くの見晴らしの良い田んぼである)

 大村郷村記や地元伝承話ふたつを考え併せて、私は次のことを推測しました。
(1)地元伝承の「田んぼの畔にあった石仏」も、大村郷村記の記述内容も同じかもしれない。
(2)石仏のあった場所は、東光寺跡近くで同じである。(以前の圃場整備などにより江戸時代の田んぼと形状は変わっているが、古老の話や指さされた位置も東光寺跡近くであった)
(3)この石仏は、田んぼの畔にあったので祀るにしても、農業のための耕作上も不便なため邪魔にならないように、どなたかが松尾神社境内に移された可能性があると思われる。


  このページ冒頭で述べた通り松尾神社の境内にある草場の二体仏について正確な史料(資料)や伝承がないため、あえて上記(1)(4)の推測なども含めて書きました。この中で、「弐体(二体)の石仏」や「田の畦にあった」などの類似項目があることから、この草場の二体仏は、大村郷村記に記載されている「東光寺跡(の所)にある弐体(二体)の石仏」と同じと思われます。

草場の二体仏についての印象・感想など
 上野個人の感想ながら草場の二体仏は、まず、この石仏を見る方へ柔和な、親しみやすい印象を与えるのではないでしょうか。私は、弥勒寺町や沖田町にある一つの石に並んで彫られた二体仏も見ましたが、このような別々の石に作られた石仏は初めてのことでした。

  何かの理由で、しかも個人などが田の神様あるいは道祖神みたいにして建立され、祀られた可能性がありますが、この草場の二体仏の持つ優しい、微笑ましい印象からして石仏の制作意図あるいは頼まれた方の願いが伝わる感じがします。制作年代は福重に数多くある石仏に比べ新しい時期(江戸時代)で、しかも他の仏頭、不動明王、線刻石仏や単体仏のような強い宗教心から造られたと感じさせないような気持ちも持ってしまいます。

情報提供のお願い
  何か、この草場の二体仏について情報をお持ちの方は、教えて頂けないでしょうか。その結果、上記内容に補足あるいは訂正があれば今後も追加更新をしていきたいと考えています。  (以上)

(初回掲載日:2008年5月10日、第二次掲載日:  年 月 日、第三次掲載日:2020年3月4日)


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