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(写真2) 碑の正面 |
(写真3) 碑の裏面 |
史跡説明板写真周辺の説明
浜田弥兵衛の碑や、その史跡説明板は、大村公園の北側(玖島城の二の丸の北側周辺)にある。そのため、通常ならば大手門(正門)側から行くならば階段を登り二の丸に出ると、左手に「少年鼓手 浜田謹吾の像」があり、その前の道路を数十メートル(右手に石垣あり)を進むと、本碑、台座や土台も含めると、約4メートルの記念碑全体が見えてくる。
また、逆に公園北側にある観光案内所、桜田の堀近くから坂道の道路を登るならば市道から100メートル位、陸上競技場の上部席や梶山御殿の方向へ進むと間も無く左手側に石垣がある。その石垣の先が三叉路となり、この右手側に記念碑と史跡説明板がある。
補足ながら、この浜田弥兵衛は、戊辰戦争で戦死し、「少年鼓手 浜田勤吾の銅像」でも有名な浜田勤吾の祖先に当たる方である。(詳細は下段の「史跡説明板の内容」を参照)」
・浜田弥兵衛の碑の特徴
大村市内には沢山の記念碑類があるが、その中で浜田弥兵衛の碑は、高さ(約2m63cm)も横幅(80cm)もありながら、かなり細長く感じる。また、本碑は市内では、あまり多くない石材で蛇紋石(じゃもんせき)との説がある。
(写真2)の通り正面(表面)に大きな文字で「贈従五位 濱田弥兵衛之碑」とある。また、(写真2)の裏面には同氏の功績などと思われる碑文が彫ってあるようだ。 (注:上野は表・裏面の碑文の詳細調査は、2025年8月現在で未実施である
史跡説明板の内容
(写真1)の中央部右側に写っている「浜田弥兵衛の碑の史跡説明板」を、さらに説明板本体部を大きく写したのが、下記右側の(写真4)である。その内容は、下記<>内の青文字が書いてある。 ただし、上野の転記ミスなどもあるので、あくまでも参考程度に閲覧願う。もしも、引用・参照されるならば必ず実物の説明板からお願いしたい。
<浜田弥兵衛(やひょうえ)の碑(ひ)
浜田弥兵衛重武は、江戸初期の朱印船貿易で長崎代官末次平蔵(すえつぐへいぞう)配下の船長です。朱印船とは、幕府の渡海許可証(朱印書)をもって貿易を行なった船を指し、鎖国前の形態でした。
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(写真4) 浜田弥兵衛の碑の史跡説明板 |
寛永二年(一六二五)弥兵衛は台湾に渡り、商船を買い入れましたが、当時港を支配していたオランダ側の課税に抵抗したため、オランダの長官により押収され、弥兵衛らはやむなく帰国しました。
三年後、弥兵衛は再び台湾にわたりましたが、なお、長官ノイツにより、将軍から台湾住民への賜物を押収されたり、帰国の許可を出さないなど不法な処置を受けたため、長官を人質に立てこもり、前に押収された商品を全て取り返し、さらにノイツの子ローレンツ五人の人質とオランダ船員を連れ帰り、長崎へ戻りました。このとき連れてこられたオランダ人たちは、末次平蔵の命により、大村と島原の牢に分けて拘留されました。この問題は、日本とオランダの貿易の中断という大きな問題となりましたが、末次平蔵の死とオランダ側が長官ノイツを日本へ引き渡ししたため、寛永十年(一六三三)ようやく解決しました。大村藩においてオランダ人を監禁した牢は、現在のバスターミナル付近で、「オランダ牢」として伝えられています。
弥兵衛の起こしたこの事件は、台湾における貿易において日本を排除しようとしていたオランダに対して抵抗するものでしたが、その後の交渉により日本とオランダの貿易は存続されることとなりました。
この碑は、語り継がれた弥兵衛の活躍に対して大正十四年從五位を贈られた時に建立されたものです。弥兵衛の子孫は代々大村藩に仕えており、戊辰の役で戦死した少年鼓手浜田謹吾少年もその一人です。墓は、下久原の多々良墓地の中にあります。
平成九年三月
大村市教育委員会>
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:「少年鼓手 浜田勤吾の銅像」
(初回掲載日:2025年8月15日、第2次掲載日:8月24日、第3次掲載日:8月27日、第4次掲載日: 月 日)
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