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福重の名所旧跡や地形

(皆同の)無量寺跡(皆同町)
(皆同の)無量寺跡(むりょうじあと) 場所:長崎県大村市 皆同町(国道34号線近くの民家周辺)

  この(皆同の)『無量寺跡(むりょうじあと)』の場所について、諸説ありますが、地元では大村市皆同町、(国道34号線脇にある)福重郵便局から西北西方向へ約60m行った民家周辺と言われてきました。寺の創建は、不明です。

 大村郷村記によれば寺院の場所は、堀池にあり、天正年間にキリシタンによって破壊されたと記述されています。その後、江戸時代に松原に再建されたとも書いてあります。それが、現在の(大村市松原2-58にある)無量寺です。この寺院跡について、詳細な古記録や伝承も少ないので、今回の紹介は、限定的な内容であることは、あらかじめ、ご了承願います。

 ・無量寺跡の場所は、諸説あるが写真中央部に写る民家周辺ではと地元で言われてきた。(左写真はグーグルアースより) 



大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した)

無量寺跡の場所について
 この(皆同の)無量寺跡(むりょうじあと)の場所について、大村郷村記の記述によりますと、「字(あざ)堀池(ほりいけ)にあった」と書いてあります。ただし、この堀池の地域内に変わりなくても、大村市内の郷土史の本によっても、あるいは福重地区の数例ある説でも、特定の場所では少しだけ違いがあります。

 そのような中、今回、私が書いています場所は、寿古町の増元氏(故人)が書かれた「福重のあゆみ・修正版」(2004年3月1日発行、執筆者:増元義雄 氏)を参照しています。この場所が正しいならば、上記写真の中央部の民家周辺(国道34号線脇にある福重郵便局から西北西方向へ約60m行った所)です。

 今となっては、結果論にしかなりませんが、同氏に生前、「なぜ、この場所だったのか?」、「根拠は?」と言うことを聞いていれば良かったです。しかし、私は、当時聞いていませんでしたので残念です。

 地元では、もう一つの説があります。そこは、上記写真の国道34号線脇(東側=写真では右側。福重郵便局から北側へ約50mの所)に、小さな堂(建物)が写っています。この堂の敷地内西側(国道側)には、石塔もあります。ご参考までに、この石塔には「南無観世音菩薩」との碑文があります。この周辺を「無量寺跡ではないか」とする説もあります。

 また、右図=『おおむらの史記』(18ページから複写して見やすいように彩色したもの)をご覧願います。この『おおむらの史記』の地図では、中央部やや左上側(北西側)に無量寺という文字が見えています。この場所は、ご覧の通り、福重郵便局近くの国道34号線上もしくは少しだけ西側として図示されています。

 先の地元の二説(2例)と、『おおむらの史記』の地図にしても、横位置(経度)では同じライン上で、間隔で約60mの範囲内でズレているというだけです。つまり、三説(3例)とも、寺院跡を示す場合の位置については、そう大きな誤差はないとも言えます。

 あと、この無量寺跡の直ぐ東側には、字(あざ)大堂(おおどう、大村弁では、ううどう)」があります。この地名は、「大きな堂(神社仏閣の建物を指す)があった所」に由来する意味があると思えます。この字は、もう一つ寿古町にある正蓮寺に由来している説も、地元であります。ただ、場所的には、無量寺跡の方が、距離的にも方向的にも近い位置関係ですが、地名の由来も諸説ありますので、なんとも言えない状況です。

無量寺跡の一つ目の説:写真中央部に写る民家周辺説(下記写真の堂も国道34号線脇=右側に小さく写っている)
無量寺跡の二つ目の説:写真中央部の堂付近説(堂の左側に近世か近代建立と思われる南無観世音菩薩の石塔がある。手前は国道34号線)

大村郷村記内容について
 この無量寺跡について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)133ページに無量寺蹟として記述されています。また、同じく松原村の165ページにも書いてあります。どちらとも、ほぼ同文同内容ながら今回二つに分けて、下記に太文字で書いていきます。ただし、福重村の項目は全文、松原村の項目は関係部分のみです。なお、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。

  念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行もしています。なお、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。今回、現代語訳も青文字で大村郷村記下部に各々書いています。

・大村郷村記、福重村の無量寺蹟について
  一 無量寺蹟
     堀池にあり寺領拾七石七斗壱舛と云天正年中耶蘇の徒破却在家となる万治三年松原村に再興す


・現代語訳
  一つ 無量寺蹟
      (無量寺跡は)堀池にある。寺領は7石7斗1舛であったと伝えられている。天正年間(1573〜1592年)にキリシタンによって破壊された
ので在家(注)となった。万治3(1660)年に松原村で再興された。
(注):在家= 出家せずに、在俗のまま仏教に帰依した人。(国語辞典の大辞林より)

・大村郷村記、松原村の海上山無量寺について(下記は無量寺跡との関係している後半部分のみを転記している)
 一 海上山無量寺
      當寺は初幅重村にあり、天正年中、耶蘇の徒蜂起して堂宇を破却し、寺蹟断絶す、萬治の初、古蹟に假屋を建、佛檀を安置して正法を勧む、然るに因幡守純長 官聴に達し許可を蒙り、萬治三庚子年春、松原村久津郷に再興す、 
(注:後略)
 
・現代語訳
  一つ 海上山無量寺
      当寺は、初め福重村にあった。天正年間(1573〜1592年)にキリシタンによって本堂が破壊されたので寺蹟(寺の遺蹟や
事蹟)のことは断絶した。万治年間(1658年〜1660年)の初めの頃に、寺院跡に仮の住まい(庵) を建てて、正しい教えをすすめていた。しかし、(このことが)(大村藩第4代藩主)因幡守(大村)純長に伝わり、許可を賜って、万治3(1660)庚子(かのえね、こうし)の年の春、松原村久津郷で再興された。

現代語訳の補足
 上記2項目の大村郷村記の現代語訳と重複した内容で、しかも少し補足しながら、まとめますと次の箇条書きと思われます。
  ・無量寺の創建の記述がないので、開山(創建)年代は不明といえる。
  ・天正年間(1573〜1592年)にキリシタンによって破壊された。
  ・万治年間(1658年〜1660年)の初めの頃、寺院の跡地に庵を建て、正しい教えを信仰し広めていた。
  ・そのことから大村藩主に認められて、万治3(1660)年、松原村の久津郷に海上山無量寺として再興された。
  <注釈:上記の寺院が、現在の(大村市松原2-58にある)浄土宗海上山無量寺である>

浄土宗・海上山無量寺(中央部の石に「浄土宗 海上山 無量寺」の碑文が彫ってある」、階段上側に本堂がある)

 あと、ここからは、私の推測です。元々の無量寺の開山場所も同じ福重村で、キリシタンによって破壊された後、同じ場所に江戸時代には既に庵のようにしてあった在家(元の無量寺跡地)が、なぜ同じ場所に再興(再建)されず、松原村に移ったのかという理由です。それは、同じ福重村にある深重山妙宣寺(じんじゅうざん みょうせんじ)と、関係あるのではと思いました。この妙宣寺は、慶長7(1602)年の開山(創建)で日蓮宗の寺院としては大村では最古です。

 また、最初(開山)の場所は、現在の宮小路付近にありましたが、慶長19(1614)年に現在地(当時の福重村矢上郷)に移りました。 そして、開山地の竹松村や、その後の福重村だけでなく、古くからあった寺院と言うことで広範囲に檀家もいて、影響力があったと推測されます。そして、その場所も福重村の中心地みたいな所にあります。

 つまり、既に福重村に庵のようにしてあった在家が、その場所ではなく、松原村で再建されたのかの理由は、一つの小さな村(福重村)に宗派は、異なるものの二つもの仏教寺院の存在を避けたのではないかと思われます。 そのため、その当時、仏教寺院がなかったと思われる松原村に再建されたのではないかと、私は推測しました。

補足


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)




(初回掲載日:2016年9月30日、第二次掲載日:10月4日、第三次掲載日:10月12日、第四次掲載日:10月 日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)

  

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