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福重の名所旧跡や地形

長崎惣兵衛の墓(ながさき そうべえ の はか)(沖田町)
長崎惣兵衛の墓
場所:長崎県大村市 沖田町

 この長崎惣兵衛の墓は、国道34号線近くの沖田町墓地にあります。国道34号線から入った(旧・長崎街道でもある)市道の脇に大村市教育委員会の案内門柱がありますので直ぐに分かります。

 なお、今回の見出し(タイトル)は、その案内門柱の表記に従って長崎惣兵衛の墓としています。ただし、長崎惣兵衛のフルネームは、『大村市の文化財』によると、長崎惣兵衛重方(ながさき そうべえ しげたか)のようです。今回、この本を元に紹介していきます。

(左写真:長崎惣兵衛の墓、左端側は案内門柱)

  この長崎惣兵衛の墓(ながさき そうべえ の はか)の紹介について、まず、墓の敷地内にある大村市教育委員会設置の案内門柱には、次の「」内のことが書いてあります。

 「長崎惣兵衛の墓 長崎惣兵衛は、大村純忠の重心として活躍した長崎甚佐衛門の弟です。大村に住まい、玖島城の築城奉行を務めました。この墓は大正時代に下久原から移転されたものです。」

長崎惣兵衛は玖島城(大村城)の築城奉行だった
 上記項目の案内門柱に書いてある通り、長崎惣兵衛は、色々と活躍しています。このことが記述されている古記録が、(江戸時代、大村藩作成の)新撰士系録です。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 また、見やすくするため太文字に変え、さらに文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は、必ず原本からお願いします。下記<>内の太文字が、新撰士系録からの引用です。 なお、( )内は、省略や上野の補足などです。

 (長崎)惣兵衛重方 (一部省略) 文禄年中太閤名古屋御陣之節御門材木ヲ被献重方奉行勤此時惣役ト成 后朝鮮ニ功アリ 玖嶋城築城之節奉行ヲ勤 重方代世々之功ヲ以永ク一献ノ席ニ列セシム 


・現代語訳
 上記の新撰士系録を現代風に口語訳すると次の「 」の通りと思われます。( )、<>内は、上野の補足や送り仮名などです。ただし、念のため正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

  (長崎)惣兵衛重方 (一部省略) 文禄年間(1592〜1596年)<文禄の役(注1)>、太閤(豊臣秀吉)の名古屋<名護屋城(注2)>を築いた時に(長崎惣兵衛)重方は材木を献上し(築城の)まとめ役になった。後で朝鮮の役(注1)で戦功があった。(1598〜1599年の)玖島城(大村城)築城時には(築城)奉行を勤めた。(このような功績があったので)(長崎惣兵衛)重方や、その一族は末長く(重要な)酒席では(殿様などから招かれて)列席していた。 

(注1):文禄の役=文禄元年(1592)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。(国語辞典の大辞泉より) 

(注2):名護屋城は肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市)にあった城である。1591年、豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として築く。石垣が現存。
(国語辞典の大辞泉などより) 

補足の紹介
 長崎惣兵衛の墓紹介について、『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)106ページにも書いてあります。この本から引用して、下記<>内で紹介します。

   長崎惣兵衛の墓 長崎惣兵衛重方は、長崎の領主長崎甚左衛門純景(すみかげ)の弟で、戸町を治めるようになり戸町惣兵衛重方と名乗りました。長崎甚左衛門純景は、初め長崎の領主でしたが大村氏に仕え、18代(注3)大村純忠の息女を夫人にし、元亀(げんき)2年(1571)の長崎開港に関わった事は有名です。

 初代藩主喜前(よしあき)(19代)(注3)は、豊臣秀吉が朝鮮嵩兵に際し、肥前の名護屋城を築いた時に木材を献上しました。この時木材奉行を勤めたのが惣兵衛重方でした。その後惣兵衛重方は喜前に従って朝鮮に渡ります。慶長(けいちょう)3年(1598)に帰国し、玖島城の築城が始まると築城奉行として活躍しました。

 慶長10年(1605)には長崎の外町まで公領となり、長崎甚左衛門は所領替えになりました。この時、甚左衛門は、大村家を去って久留米の田中吉政に仕える事になり、弟の惣兵衛重方が長崎姓を継ぎました。

  惣兵衛重方が大村に来た時期ははっきりしませんが、屋敷は外浦小路(ほかうらこうじ)、現在の大村城南高校の一角にあり、墓は同校の校舎の台地に玖島城を向いて立っていました。子孫にあたる福重の長崎医院の方が現在地に移転され、今日に至っています。2基の有耳五輪塔が夫妻の墓です。 

(注3):「大村氏系図」及び「大村家18代」とか「19代」とかの表現は、初代から大村純治頃まで全て江戸時代、大村藩の創作(偽装)のため架空の系図と代数であり、そのため代数を表示すること自体が間違いである。初代から大村純治以前まで、その存在を示す事績さえもないと言われている。ただし、江戸時代、大村藩主の代数で、初代藩主、二代目藩主、三代目藩主と表示するのは正確である。<参照:大村の偽装の歴史や表現一覧表など江戸時代に偽装され大村氏系図

(初回掲載日:2012年6月24日、第二次掲載日:2012年6月25日、第三次掲載日:2012年6月27日、第四次掲載日:2012年6月29日)



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