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福重の名所旧跡や地形

てぼ屋敷(てぼやしき)(沖田町)
てぼ屋敷
場所:長崎県大村市 沖田町

 このてぼ屋敷は、郡中学校の運動場側校門から、ほぼ真東へ約130mいった個人宅の敷地を言います。ここの朝長家は、所有の系図によりますと平安時代後期頃から続く家柄で、長年大村家に仕えていた武士(重臣)の家系でした。そして、戦国時代の 元亀3年(1572年)に武雄の後藤氏、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏の軍勢から大村純忠が居城していた三城城が急襲された「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」の戦が起きました。この時、武士の一人が、籠(かご)てぼに脇差(わきざし)を隠して三城城に入り、窮地を救いました。そのてぼは、朝長家に置かれたと言い、その後「門外不出の宝」として大事に保管され代々伝わってきました。

 なお、てぼ屋敷のことは、江戸時代・大村藩によって編さんされた(大村)郷村記にも記述されています。(復刻活字版・大村郷村記ならば第二巻63〜64ページ に、「てぼ屋鋪」の内容あり) 同時に地元の沖田町などでは長年、この敷地などを「てぼ屋敷」と呼称してきました。(左写真:中央部の個人宅の敷地が、”てぼ屋敷”。なお、このページ掲載の航空写真は全てグーグルアースより)

てぼ屋敷周辺写真

上記写真の説明:写真中央部にある個人宅が、てぼ屋敷である。左端側(西側)に白く見えているのが、大村市立郡中学校の運動場の一部で、この近くの校門から、ほぼ真東へ約130mいった所がてぼ屋敷である。また、その運動場直ぐ右側(東側)が2車線の国道34号線、さらに右側に1車線の市道があるが、この道路は長崎街道でもあった。

 そして、その市道(旧・長崎街道)から少し右側にいった所に、上下(南北)に緩くカーブしたように見えているのが、JR大村線の線路である。なお、この写真には写っていないが、上部(北側)方向に郡川がある。この郡川の南側一帯は、通称で上川原(大村弁:かんごら)と呼ばれている。

 あと、この写真に写っているJR大村線の右側(東側)一帯にある民家や田畑のほとんどが、新幹線の車両基地や線路になる予定である。(2015年現在で、新幹線工事や遺跡発掘作業などが同時におこなわれている。そのようなことから、上記写真は、その工事や作業が一部進行中ながら、マダマダ本格的に始まっていない頃に写されたものと推測される)


大村郷村記に記述されている”てぼ屋敷”
 今回、紹介していますてぼ屋敷についての史料は、江戸時代、大村藩によって編纂された(大村)郷村記の竹松村に記述されています。復刻版ならば、大村郷村記・第二巻(1982年2月28日発行、編者:藤野保氏)の63〜64ページ(竹松村の「てぼ家鋪」項目)に書いてあります。

てぼ<元亀3年(1572年)の「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」の戦の前からある>

 下記の 内が、その文章です。文章は、全て縦書きですがホームページ上、横書きに直しています。また、1行に2行書いてある部分は、1行に変えています。文章は全文続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

  ただし、ご参考程度に、ご覧願います。また、文字を置き換えているのもありますので、引用や参照などをされる方は、必ず原本から願います。

 「 一 てぼ屋鋪
 郡田原往還道上朝長國太郎屋鋪を古來てぼ屋鋪と云、其由來を尋ぬるに、元亀三年七月晦日、後藤伯耆守貴明、平戸・諌早の援兵と密に牒し合せ三城を圍む事甚た急なり、時に城中おもひ寄さる俄の事にて、未た馳参るものもなかりハ、境目の一戦も不叶、純忠纔七騎の兵を以て籠城す 事 大村之部詳三城 古城蹟之條下

然處郡村の給人長岡左近・同備前・朝長壱岐・福田大内藏の輩敵寄來り、三城俄に籠城のよし (虫喰)(注1)  馳来る途に於いて、 下河原の村君右衛門に (虫喰)(注1) 逢う時に各方ハ何方へ行給ふそと尋けるゆへ、しか??(注2) のよし申聞けれハ、我も共に参らんと擔たる笊籬(サル) 俗てぼと云ふ、路傍に捨、其中より小脇指を取出し同しく三城へ登城す、

純忠彼か忠志を感し玉ひ、直に酒盃を賜ふ、即此時笊籬を捨たる處なり、是より此處をてぼ屋鋪と云、開運の後忠の一字を賜り、村君右衛門を改て冨永彦四郎忠秀と唱ふへきの恩命を蒙り、且波佐見村に於て田地壱町を賜ふ、感状今尚家に傳ふ

(注1):「(虫喰)」は、(大村)郷村記の原本が虫に食われて判読できず復刻版にかけなかったということである。
(注2):「??」の部分の文字は復刻版では使用されているが、「く」の字に似た字点で、縦書き文章で以前使用されていた。それは、「2字以上の仮名、もしくは漢字と仮名を繰り返す場合に用いる」との意味である。



・現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように改行も変えています。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、てぼ屋敷の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

  てぼ屋敷  郡村の平らで広い田んぼ脇の街道周辺にある朝長國太郎の屋敷を昔から「てぼ屋敷」と言う。その由来を尋ねると、元亀3年(1572年)7月梅日(みそか、月末)、(武雄の) 後藤伯耆守貴明(ごうとうほうきたかあきら、「ごとうたかあきら」のこと)は、平戸(松浦氏)と諫早(西郷氏)の援軍を密かに文書でやり取りをして三城を囲む(包囲)ことが大変急に起こった。

この時に城中のことを対応しようにも急なことだったので、馳せ参じる(駆けつける)者がいなく、(敵との)境目周辺での一戦もできずに(大村)純忠は七騎(7名の家来、武士)とともに三城城に籠城(城にたてこもること)になった。(注釈:このことをもって後世に「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」と呼ばれた)  (これらのことは「大村の部」「古城蹟之條下」の「三城」の記述に詳細に書いてある)

(つぼ)<上から3番目写真のてぼと同じく、てぼ屋敷に戦国時代頃より現在まで大事に保管されてきた>

しかし、郡村の給人(きゅうにん、武士の一つの役職)の長岡左近、同じく備前・朝長壱岐、福田大内藏の同輩が寄って来て、「(主君の大村純忠が)三城俄に籠城していると(聞きつけて)馳せ参じようと思って下河原の村君右衛門に会う時に各々の方は、どこに行かれるのかと尋ねた、

しかじかの話を聞けば、我も共に行くと、(背中に)担いで(かついで)いた笊籬(サル)、俗称“てぼ”と言うのを路傍に置き(捨て)(注3)、その中より小脇指を取り出し同じく三城へ登城した。  (大村)純忠は彼らの忠義心を感じて、直ぐに酒盃を賜えた。すなわち、(てぼ屋敷とは)この時に笊籬(サル)を置き(捨て)た所である。これより、“てぼ屋敷“と言う。

開運<今回の場合:三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」の戦さで勝利した>後で(純忠の)” 忠“の一字を賜って、村君右衛門の(名を)改めて冨永彦四郎忠秀と称す(名乗る)べきとの御命令をもらい、かつ波佐見村の所にある田んぼ一町部(約3,000坪、約9,900平方メートル)を賜った。(純忠からの)感状(賞状みたいな褒めてある文章)は、今も(この)家に伝わっている。 

(注3):大村郷村記の「笊籬(サル)を捨たる」の「捨たる」の解釈は、「笊籬(サル)=てぼを置いた」と言うのが正しい文章表現と思われる。なぜなら仮に「ゴミを捨てた」と同意語みたいな解釈では、てぼはなくなっているのが当然だからである。てぼを置いて大事に保管していたからこそ、約450年前から現在まで、てぼは現存し、そのため、朝長家が”てぼ屋敷”と伝承されてきたのは歴史的事実である。

補足の紹介

   (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)

(初回掲載日:2015年6月7日、第二次掲載日:2012年6月9日、第三次掲載日:6月14日、第五次掲載日:6月26日、第六次掲載日:6月 日、第七次掲載日:6月 日)



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