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福重の名所旧跡や地形

寿古の船囲場跡(寿古町)
寿古の船囲場(すこののふなかこいばあと) 場所:長崎県大村市 寿古町(郡川河口の右岸側、大村湾近く)

  この寿古の船囲場跡(すこの ふなかこいばあと、すこの ふねかこいばあと)場所について、大村郷村記、「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)と、寿古町の伝承を参考にしました。先の大村郷村記の項目名は船圍場とあり、「福重の史跡」では(写真)名称として、船囲場跡となっています。

・左側の画像説明:これは江戸時代の大村藩領絵図の一部分である。左側の広い紺色が海=大村湾、下側で左右(東西)の紺色が郡川。中央部やや左側に海から続く紺色の入り江が二か所見えている。この池のようにも見える入り江船囲場があったと思われる。

 <注:船囲場の名称は大村郷村記の記述通りであるが、全国では「舟囲場」との書き方もある。地元での読みは「ふなかこいば」、「ふねかこいば」と両方の呼び方がある。

(この写真は上記左側の大村藩領絵図と、ほぼ同じ場所である) 左側は大村湾、下側で左右(東西)に流れているのが郡川。右側上下(南北)の道路は市道杭出津松原線(サンセット通り)と郡大橋。河口先端から約100m上流側に太陽光発電パネルが見える。このパネル敷地の上部(北側)の海岸沿いの林田んぼが、元は入り江船囲場があった所である。(空中写真はグーグルアースより)

概要紹介
 船囲場とは、その名の通り「船(舟)を係留しておく所」です。この寿古の船囲場は、大村湾直接よりも強い風波を避け、陸側にも近いため便利である入り江の中に船を止めておいたと思われます。その場所について、江戸時代の(大村)郷村記によれば、「福重村下河原(しもごうら=大村弁)の大江」にあったと記述されています。上記左側の大村藩領絵図に描かれているのは、江戸時代の中期頃ですので、例えば古代とか中世時代の入り江の状況と違っています。

 絵図では薄い紺色になっていますが、郡川の土砂堆積や土地改良(埋め立て)が盛んにおこなわれる以前なら、推測ながら直接、郡川にも大村湾にもつながっていた可能性もあったと思われます。入り江跡と思われる場所で、現在、田んぼになっている所の標高は高くても1メートル数十センチで、逆に1メートルも満たないような場所も広くあります。

 右側の空中写真説明文をご覧になればお分かりの通り、この船囲場跡は、現在、郡川河口近くにある太陽光発電パネルの上部(北側)周辺にある海岸沿いの藪(やぶ)や、田んぼになっている所です。なお、このの中に、幅が数メートルある溝が残っています。また、地元では、「以前、養魚場があった場所が船囲場跡だ」と話されていまして、いずれも、その通りと思われ昔は入り江だったのでしょう。

 あと、先の(大村)郷村記には、(現代語訳で)「大昔は好武城の船囲場であった」と記述されています。そのことから、この城が廃城になる以前(戦国時代末期頃まで)は、船囲場が良く使用されていたのでしょう。

写真左側が大村湾。船囲場跡の特定はできないが中央部のがある付近から元は海の入り江もしくは低湿地帯だったと推測される。このの長さは500m以上あるが、大村藩領絵図を参照すれば、その内の300m位が入り江だったと思われる。の下には幅数メートルのがある。

大村郷村記の記述について
 
寿古の船囲場跡の件は、復刻版(活字版)大村郷村記・第二巻・福重村135ページに、「船圍場(ふねかこいば)との名称項目で記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。

 念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記は、ご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。

 「 一 船圍場
 福重村下河原に大江と云所あり、 葭生茂り池の形今に残れり、 此処往古好武城の比船囲場なりと云、
 森領右衛門先祖は、其比の惣船頭の家にて、大江の傍に居住すと云、 今に径三寸位の磁石を家に持傳ふ 」


・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

 < 一つ 船囲場
 福重村下河原(しもごうら=大村弁、しもがわら)に大江と言う所がある。葭(ヨシ、アシ)が生い茂って、池の形(のようにして)で、今は残っている。 ここは大昔、好武城があった頃の船囲場であったと言う。

 森領右衛門の先祖は、その頃の船頭頭(船囲場を管理する組合長=会長)の家て、大江の周辺に居住していたと言う。(ここの家には)現在も直径9センチ位の磁石(じしゃく、磁気コンパスのこと?)を持っていると伝わっている。  

大村藩領絵図について
 
右側画像は、大村藩領絵図<九葉実録・別冊(大村史談会1997年3月発行 、附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)>の郡川河口近くを中心にトリミングしたものです。この絵図完成年は、従来説では「1800年頃の大村領を描いたもの」と言われてきました。

 大村藩領絵図の郡川河口右岸部分 (上から2番目の空中写真と、ほぼ同じ場所である) 絵図左側の紺色は大村湾、下側で左右(東西)に流れているのが郡川。この川の右岸側に二つの(紺色の)入り江が描かれている。推測ながら地名の「大江」の由来は「大きい入り江」と思われる。船囲場は、この入り江にあったものと思われる。

 しかし、私は10年程前から、松原八幡神社が現在地で描かれていないことなどから、「もっと早期、例えば1700年〜1750年頃に完成したのでは」との説を多くの方へ知らせていました。

 この絵図は、巨大な大村藩領絵図の郡川河口右岸部分(上から2番目の空中写真と、ほぼ同じ場所である)だけです。絵図左側の紺色は、大村湾です。下側で左右(東西)に流れているのが郡川です。この川の右岸側に、二つの(紺色の)入り江が描かれています。

 私の推測ながら地名の「大江」の意味は、「大きい河(川)」などを言うので、郡川の河口で広かったことを指しているのかもしれません。また、この場合では、「大きい入り江」とも解釈できるのではないでしょうか。いずれにしても船囲場は、この入り江にあったものと思われます。

 あと、常識的に考えれば、いくら陸地に近い方が便利と言っても舟底が海底にゴツゴツ付くような所とか、湿地帯みたいな場所は、逆に不便です。どちらかと言えば、荷物を一杯載せても浮いているような、水深もある入り江の方が舟の出入りもしやすいと考えられます。そのようなことから、海(大村湾)に近い場所が、船囲場の適地だったとも想像されます。そのようなことから、この絵図で見るならば上側(北側)で、大村湾側に近い入り江内に寿古の船囲場はあったと思われます。

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年5月16日、第二次掲載日:5月18日、第三次掲載日:5月25日、第四次掲載日:5月26日、第五次掲載日:6月1日、第六次掲載日: 月 日、第七次掲載日: 月 日、第八次掲載日: 月 日)

  

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