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福重の名所旧跡や地形

太郎岳大権現の本坊跡(郡岳南東斜面七合目付近にある平地)
太郎岳大権現の本坊跡 場所:長崎県大村市 重井田町 (郡岳の南東斜面7合目付近)
  (大村)郷村記が正しければ太郎岳大権現(たろうだけだいごんげん)は、奈良時代初期、郡岳に開山され、三尊(弥陀 釈迦 観音)が祀られていました。その後、戦国時代の文明年間に郡岳から多良岳に遷座し、大村純忠時代にキリシタンによる他宗教弾圧事件で焼き討ち破壊されました。江戸時代に池田山に再建され、この当時まで太郎岳時代のご神体はあったと記録されています。現在は、多良(多羅)大権現(金泉寺)と呼ばれています。

 太郎岳大権現の礎石跡は、郡岳頂上にありますが、南登山口コースの7合目付近には(第一候補地ながら)本坊跡があり、他は斜面や坂ばかりなのに、そこだけ平地になっています。この本坊を由来にして、大きな岩である坊岩(ぼうのいわ) などには、その名称も付いています。(左写真は本坊跡と思われる平地=横幅約40m〜50m、奥行約10m)

大村郷村記の内容
  太郎岳大権現については、郡岳頂上にある礎石跡含めて江戸時代編纂の(大村)郷村記に、けっこう詳しく記述されています。原文は、郡岳全体の記述になっていますが、それでは長いので大権現に関係している内容のみを下記「 」内に書きます。ただし、大村郷村記は復刻版(1982〜1987年、藤野保氏発行)『郡村之内 福重村』の『郡岳並坊屋鋪之事』項目からの引用です。

 今回の下記二つ「 」内は、太郎岳大権現関係項目を分けて紹介しています。また、
(大村)郷村記原文は続き文のようになっていますが、下記「」内は、私の方で太文字、区切りや( )内を入れています。参照・引用される場合は、必ず原文から、お願いします。

 「 郡岳 (前略) 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 当山鎮座の時太郎岳権現と称す文明の比皆是山の奥太郎岳に遷座して太郎岳大権現之唱ふ 万治年中池田の里に再興ありて多羅山大権現と号す 由来大村神社の条下に詳也 

   坊屋鋪 郡岳南の方半腹に堅五間横弐拾間程の平地あり  此処往古太郎岳権現垂跡の時本坊ありし蹟にて今に此処を坊屋鋪と云 側に凡三尺五寸廻リの杉壱本あり 此処辰巳の方に汲川とて清水あり 又西の方に坊岩とて高サ弐拾間余の大岩あり 山の八合目位にあたり郡往還より能みゆるなり  (以下省略)

郡岳(こおりだけ 826m) 写真中央付近が推定の本坊跡(坊屋敷)、左側八合目付近の岩が坊岩

・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳すると下記<>内の通りです。下線太文字は、分かりやすいように上野が付けました。ただし、あくまでも素人訳ですので、ご参考程度にご覧願います。

 < 郡岳 (前略)かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている 

 当山(後年の郡岳)鎮座の時には太郎岳大権現と呼ばれていた。文明年間(1469〜1486年)の頃に萱瀬山の奥太郎岳に遷座したため、これを太郎岳大権現と呼ばれた。万治年間(1658〜1660年)池田の里に再興(再建)されて多羅山大権現と言っている。由来は大村神社の項に詳細書いてある。 >

   坊屋敷(ぼうやしき) 郡岳南側の中腹に縦9m、横36mの平地がある。ここは大昔、太郎岳権現があった頃の本坊の跡で、現在ここを坊屋敷と言う。そばにおおよそ106cmの杉の木が1本ある。ここから南東の方角に汲川といって清水がある。また、西の方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。山の八合目
(注A)くらいにあって郡村の道路から良く見える。 


(注A):(大村)郷村記には「坊岩(ぼうのいわ)は八合目にある」と書いている。その坊岩を起点に考えるならば標高的に本坊跡は、100メートル位低いので私は「本坊跡は七合目付近」と表現している。

本坊跡と思える内容について
 上記の(大村)郷村記にある通り、郡岳頂上(826m)には、私が2005年5月27日に発見した太郎岳大権現の礎石跡(柱石跡)4個が現存しています。(詳細は、「太郎岳大権現の礎石跡(郡岳頂上に現存する柱石4個)」ページを参照)

郡岳頂上に現存する太郎岳大権現の礎石跡4個(4個ともA3サイズ前後位の平たい石ばかりで中心点を計測すると東西・南北の長さはピッタリ同じである。今でもそのまま社が建てられるほどである)
(推測地の)本坊跡<平地は横幅約40m〜50m、奥行約10m。平地内にある登山道脇に大きな倒木(下記写真参照)もある>
本坊跡の脇にある登山道、大きな倒木と(写真中央部)その倒木の所に「郡岳頂上まで、あと1.4kmの標識」がある。この登山道の左側(西側に奥行約10m、横幅約40mの本坊跡の平地(上記写真参照)がある。逆に倒木の右側(東側)にも奥行は同じで横幅が10m強の平地がある<写真は郡岳南登山口コースの登る方向で撮影した>

 この礎石跡は、登山された方ならば誰でもはっきりと確認できるので、その根拠や説明は不要かと思います。(右側2番目写真参照) 右側2番目の礎石跡写真には、4個の平らな柱石が写っています。写真右下側に見える土が被ったような石は、私が発見した直後で萱(かや)や土を除いたばかりなので小さく見えますが、実物はもう少し大きいです。(注:上部右端側の背の高い石は柱石ではない)

 今回紹介中の本坊跡(推測地)の方ですか、そのことに至った根拠や若干の経過は、再度書きたいと思います。念のために、まだ、この場所を本坊跡と確定・断定できる例えば石碑、木簡、陶器などの遺物が発見されていません。ただし、他の推測地も2ヶ所ほど私は調べましたが、(大村)郷村記内容に、これほど合致した場所もないといえます。

 それを(大村)郷村記の現代語訳を参照し、改めて列記すると、次の「」内の下線通りです。()内は、補足や注釈です。
1,郡岳南側の中腹」(郡岳の中央尾根部分と言う意味と思われる)
2,縦9m、横36mの平地がある」(現在、平地として奥行き10m、横幅約40m〜50mがある)
3,106cmの杉の木が1本ある」(現在、「郡岳頂上まで、あと1.4km」標識の所に大きな倒木がある」)
4,南東の方角に汲川といって清水がある」(この泉は現在ゴルフ場脇にある「をとくの泉」か、中央尾根東側方向にある「大谷水神の泉」と思われる)
5,
西の方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある
(現在は樹木が繁っているため視認できないが、当時は本坊から岩が、あるいは逆に防岩から本坊が見えていたのだろう)

  以上の5項目を参考に郡岳山中にある3候補地を調べた結果、他の2ヶ所の場所は色々な過不足があり、本坊跡して右側3番目写真の平地の所が一番適していると推測されます。

 あと、この場所は、太郎岳大権現が戦国時代の文明年間(1469〜1486年)の頃に萱瀬山の奥太郎岳に遷座した後、林業(伐採後の木材や木炭の集積場)用に使われた可能性があります。江戸時代の(大村)郷村記内容の横幅約36mより、少し広くなっているのは、その集積場を徐々に広げた可能性もあります。

 あと、3,の「郡岳頂上まで、あと1.4km」標識
の所(右側上から4番目写真参照)にある大きな倒木
が、>(大村)郷村記内容=「106cmの杉の木が1本ある>」と一致しているならば、それはこの場所が本坊跡と確定しても良いくらいの決定的な意味を持つと思います。なぜなら、この七合目〜八合目付近には杉の木が現在なく、ほぼ全て広葉樹林=雑木林なのです。(ただし、六合目付近下側方向には、面積広く杉が植林されている)この倒木は、江戸時代はまだ生きた状態で、その後時代は不明ながら台風などで倒れたと推測されます。(根元は確認できる)

 繰り返しになりますが、傾斜地の多い郡岳中央尾根で七合目付近にある(推測地の)本坊跡だけ平地(奥行き10m、横幅約40m〜50m)があります。しかも、横に細長い民家ならば充分建てられる広さですから、このことは本件を語る上で重要な示唆を与えていると言えるでしょう。

補足
 
既に「太郎岳大権現(謎だった古代の寺院跡発見と紹介)<太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された>」ページで紹介した通り、上記の項目でも、かなりの重複をしながら今回書きました。ただし、この(推測の)本坊跡と郡岳頂上に現存している礎石跡では、同じ太郎岳大権現関係と言っても、1.4km離れているので今回分けて紹介しました。

 本坊跡と思われる平地は、郡岳南登山口コースで登られるならば、(右側上から4番目写真参照)登山道脇に大きな倒木「郡岳頂上まで、あと1.4km」標識の左側(西側)にありますので、大変分かりやすいと思われます。

 郡岳登山時に、この本坊跡の平地と頂上に現存している礎石跡をご覧頂き、古代の謎の寺院=太郎岳大権現にも思い巡らして頂けないでしょうか。私は、大村市内において松原にあった(紫雲山)延命寺とともに、この太郎岳大権現は最古級の寺院跡と思っています。

関係ページ:「太郎岳大権現(謎だった古代の寺院跡発見と紹介)<太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された>」 、 「太郎岳大権現の礎石跡(郡岳頂上に現存する柱石4個)」 、 「坊岩」 、「郡岳

(初回掲載日:2013年11月7日、第2次掲載日:2013年11月8日、第3次掲載日:2013年11月10日、第4次掲載日:2013年11月13日、第5次掲載日:2013年11月16日)



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