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(福重村)従軍記念碑
(今富町の大神宮入口脇)
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概要紹介
・名称:(福重村)従軍記念碑(ふくしげむら じゅうぐん きねんひ) 注意1:碑の名称は右側写真の通り、従軍記念碑のみだが、この種の石碑は大村市内各地区に沢山あるので間違わないように、今回、(福重村)を頭に付けた。 注意2:本来、碑本体の「從」の文字は昔の漢字だが、このページでは一部分の表現を除き、全て常用漢字の従に変えた。
・本来の碑の名称:從軍記念碑
・建立年月日:昭和十二年十三月十日(1937年3月10日)
・建立者:帝国在郷軍人会福重村分会
・所在地:大村市今富町、大神宮の入口脇(東側)
(福重村)従軍記念碑は、福重村出身者で陸軍や海軍に従軍(出征)された方を記念して、その氏名が彫ってあります。場所は、大村市今富町・大神宮境内入口、東側の脇にあります。(右側写真参照)
この従軍記念碑本体は、写真の通り大砲か鉄砲の形をあしらったものと思われます。大神宮境内へ入る道路(農道)の地面から碑の最上部までは、4m50cm位あります。
この碑は、1937年3月10日、その当時の帝国在郷軍人会・福重村分会によって建立されています。当時は、(大村市と合併する約5年前ですから)当然、福重村の時代でした。また、記念碑下方にある土台の形全体や、その材質は(福重村)招魂碑とほぼ同じです。<(福重村)招魂碑は、ここからご覧下さい>
従軍記念碑の書(揮ごう)は、長崎県出身で陸軍中将であった柳川平助(やながわ へいすけ)氏によるものです。(右側写真に見える従軍記念碑文字の左側列に肩書きや氏名なども彫ってある) また、記念碑本体や下方にある土台上部には、従軍された方の氏名が、各郷(町)別にびっしりと彫り込まれてあります。
この碑の周囲は、大神宮境内まわりにある樹木、道路、みかん畑です。ですから、(写真の通り)碑の本体も土台周辺部も良く見えます。ただし、その分、日当たりや風雨も直接当たりますが、碑文の保存状態は良く、肉眼でも碑の本体部を一部除いて、ほとんど視認できます。
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(福重村)従軍記念碑の正面碑文(拓本作業中)
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1)従軍記念碑とは
この項目、まずは従軍記念碑の文字を、「従軍」と「記念碑」に分けて書きます。国語辞典の大辞泉には、先の言葉について、次の二つの<>内が解説されています。それにプラスして、上野の補足も書いています。
<従軍(じゅうぐん)=軍隊に所属または従属して戦地へ行くこと>----つまり、軍人、報道、看護師(看護婦)などが軍隊と一緒に戦地にいくことを指しています。そして、戦前は、軍人以外の場合、例えば看護婦や技士などは「軍属」と呼ばれた。
<記念碑(きねんひ)=ある出来事や人の功績などを記念して建てる碑。モニュメント。>
上記二つの解説をまとめますと、従軍記念碑とは、「軍人や軍属が戦地に行った(出征した)ので、その功績を記念して建てた碑」といえるでしょう。 念のため、この記念碑に彫られている氏名は、戦死あるいは傷病などと関係なく、戦前、軍人や軍属として戦地に行かれた全員です。
なお、軍人・軍属で戦死された方などは、別の記念碑で十数メートル北側にある「(福重村)招魂碑」を参照願います。
2)従軍記念碑の大きさや石材など
(この原稿は、準備中)
3)従軍記念碑の碑文内容
(この原稿は、準備中)
(イ)表面の文字について
(この原稿は、準備中)
(ロ)裏面の文字について
(この原稿は、準備中)
(ハ)側面の文字について
(この原稿は、準備中)
4)関係記念碑について
(この原稿は、準備中)
まとめ
(この原稿は、準備中)
・関係ページ:大神宮 、 (福重村)招魂碑 、 亀石 、 石割樫
(初回掲載日:2013年11月3日、第2次掲載日:2019年10月2日、第3次掲載日:2019年 月 日、第4次掲載日: 年 月 日、第5次掲載日: 年 月 日、第6次掲載日: 年 月 日、第7次掲載日: 年 月 日)
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