最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
2025年6月30日、福重小学校4年生へ、空襲(くうしゅう)と学校まわりの史跡(しせき)の講話(概要報告)
 福重小学校4年生へ講話(手前側は4年生、奥中央は講話中の上野
場所は多目的室にて。 2025年6月30日撮影)
福重小学校4年生へ、空襲(くうしゅう)と学校まわりの史跡(しせき)の講話(概要報告)
日時:2025年6月30日09時05分~09時50分
主な講話内容:
 
1)空襲(くうしゅう)
 2)学校まわりの史跡(しせき)

場所:福重小学校・多目的室
参加:83名(4年生80名、先生3名含む)<ご参考までに、2025年5月1日現在で福重小学校の児童=426名
講話担当者:上野(福重郷土史同好会)
 注1:下記の講話内容は、分かりやすくするため一部、補足、改訂も含めて書いている。
 注2:写真の掲載順は順不同であり、上からの順番などには何の意味もない。
今富城跡'(いまどみじょうあと)と、皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)
皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)
福重飛行場(ふくしげ ひこうじょう)  
今富町にある招魂碑(しょうこんひ)
 白馬様(しらうまさま)=子どもの守り神様(かみさま)
矢上の天満宮(てんまんぐう)、学問(がくもん)の神様(かみさま) 
舟つなぎ石(1万年以上前)
今富城跡'(いまどみじょうあと)

<主な講話内容>
 4年生の皆さん、おはようございます。今日は、一緒(いっしょ)に勉強(べんきょう)できるのが、楽しみです。歴史(れきし)の勉強(べんきょう)は6年生からと聞きましたが、今日(きょう)は6年生になったつもりで、勉強しましょう。さっそく、話(はなし)をしますが、分からないことあれば、後(あと)で質問(しつもん)して下さい。

1)空襲(くうしゅう)
 空襲(くうしゅう)とは、戦争(せんそう)で、アメリカ軍(ぐん)の飛行機(ひこうき)から爆弾(ばくだん)、ロケット砲(ほう)、焼夷弾(しょういだん)がおとされ、人が亡くなったり、家(いえ)が焼(や)けたりしたことをいいます。長崎原爆(ながさきげんばく)だけでなく、この大村でも福重でも悲(かな)しいことが、たくさんありました

 たとえば、沖田町は当時(とうじ)の40数戸の家(いえ)の半分(はんぶん)近く燃(も)やされました。また、皆同町の防空壕(ぼうくうごう)に避難(ひなん)していた人たちが、防空壕(ぼうくうごう)の上に爆弾(ばくだん)か落ちたのか、落盤(らくばん)により5名くらいが亡くなりました。その中には、若いお母さんといっしょだった赤ちゃんと子どももふくめ、母子(ぼし)3名もなくなりました

 また、今富町の帯取(おびとり)の丘(おか)では、当時(とうじ)8才の福重小学校の子どもがアメリカ軍(ぐん)の飛行機(ひこうき)の機関銃(きかんじゅう)で殺(ころ)されました。あと、終戦(しゅうせん)まで1か月という7月のことでした。さらに、四国(しこく)の大学生(だいがくせい)だった沖田町の20才くらいだった人は、たまたま、長崎市内(ながさきしない)のお友達(ともだち)に会いにいったところ、8月9日の長崎原爆(ながさきげんばく)で亡くなりました。このように大村でも福重でも悲(かな)しいことが、たくさんあったのでした。なによりも平和(へいわ)が、いちばん良いですね。

 さきほど話した空襲(くうしゅう)で亡くなられた方のお名前(なまえ)は、今富町、大神宮(だいじんぐう)にある「招魂碑(しょうこんひ)」にありますので、だれでも見れます。

<福重の空襲(くうしゅう) 被害(ひがい)のまとめ
(1) 飛行場・砲台(ひこうじょう、ほうだい)  → 空襲(くうしゅう)
(2) 福重小学校、1944年11月21日、校舎(こうしゃ)へ空襲(くうしゅう)、1945年、飛行場(ひこうじょう)ができたので、今のところへ、うつる
(3) 爆弾・焼夷弾(ばくだん・しょういだん)  → 皆同・沖田・今富・弥勒寺・野田町などで民家(みんか)が燃やされた
(4) 皆同の防空壕(ぼうくうごう)で、11人生き埋め(いきうめ)。お母さんや子ども2人もふくめて5人くらいが死亡(しぼう)  今富の帯取(おびとり)の丘で福重小学生が銃撃(じゅうげき)され死亡(しぼう)
(5) 福重全体(ぜんたい)で、10名くらい亡くなった
-------------------・・・-------------------・・・
<学校まわりの史跡(しせき)
 史跡(しせき)とは、古いところということです。福重小学校まわりには、たくさんあります。その内の、ほんの少しだけ話します。.

 ① 白馬様(しらうまさま) ---学校の中にあります。1941年1月にできました。白馬様(しらうまさま)は子どもと先生の守り神様(かみさま)です。学校内に子どもたちの守り神様(かみさま)があることは、全国(ぜんこく)でも珍(めずら)しいものです。このように学校パンフレットの人文字(ひともじ)写真(しゃしん)にもなってますし、PTAシャツのマークにも白馬様はなってもいます。

 ② 学問の神様(がくもん の かみさま) 矢上の天満宮(てんまんぐう)---延享(えんきょう)元年(がんねん)(1744)7月23日にできました。今から約280年まえからあります。中学3年生が、高校受験(こうこうじゅけん)前(まえ)に、おねがいにこられるそうです。

舟つなぎ石(ふなつなぎいし)---1万年以上(いちまんねん いじょう) まえまで、この近くや学校まわりは海(うみ)だったということです。つまり海の高さとあまりかわらないので、5年前の水害(すいがい)のとき、運動場(うんどうじょう)が冠水(かんすい)しました。なお、水害(すいがい)は、もう、おわりではありません。また、おこるかもしれません。

今富城(いまどみ じょう) --1469~1486年ころにできた?---<「今富城跡'(いまどみじょうあと」ページを参照(さんしょう)>

皆同砲台(かいどう ほうだい) ---1945年4月ころにできました。<「皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)」ページを参照> 砲台(ほうだい)とは、空にむかって打つ(うつ)機関銃(きかんじゅう)のことです。この砲台(ほうだい)の下にあった防空壕(ぼうくうごう)で、5名くらいが亡くなりました。
 ----------・・・----------・・・----------・・・
質疑応答(しつぎ おうとう) (Q &A) 質問や答えの重複内容などは、まとめ直して書いている)
Q1:(福重に)防空壕(ぼうくうごう)は、いくつくらいあったのか?
A1:大きいのもあったが、民間用(みんかんよう)の小さい防空壕(ぼうくうごう)ならば、たくさんあった。たとえば隣同士(となりどうし)でとかに一つとか。そして、各町(かくちょう)で10くらいあったろう。ただし、丘のところならば横(よこ)に穴(あな)をほれるが、平地(ひらち)の所は、地面(じめん)に穴をほって、その上に板や草木でカムフラージュしていた。

Q2:地雷(じらい)は、使ったのか?
A2:地雷(じらい)もあった。ただし、日本国内(にほん こくない)よりも、直接(ちょくせつ)戦争(せんそう)をした中国(ちゅうごく)とか東南(とうなん)アジアでの戦争(せんそう)した場所(ばしょ)などで、敵(てき)が近づいて来れないように地雷(じらい)を地面(じめん)に埋(う)めたのが多いだろう。

Q3:子どもも戦争(せんそう)をして戦(たたか)ったのか?
A3:沖縄(おきなわ)ではあったと思う。しかし、全国(ぜんこく)では、直接(ちょくせつ)戦ったというより、武器(ぶき)をつくる工場(こうじょう)で働かされたなどが多かったと思う。

Q4:誤(あや)まって打つとか、同士打ち(どうしうち)などは、あったのか?
A4:国内(こくない)では少なかったと、おもわれる。ただし、海外(かいがい)の戦地(せんち)では、あったと思うが、はずかしいことなので、このようなことは記録(きろく)には残っていないだろう。

Q5:白馬様(しらうまさま)は、どうして、できたのか?
A5:この白馬様は私が答え(こたえ)をいうより、「福重のあゆみ」の62~63ページに、おもしろいことが書いてあるので読(よ)んでほしい。

4年生からお礼
 最後(さいご)に、4年生全員から元気な声で、お礼がありました。
----------・・・----------・・・----------・・
<上野の感想>
 歴史(れきし)の授業(じゅぎょう)は、6年生からと聞きました。そのような中で4年生は全員、大変熱心でした。たくさんの疑問(ぎもん)、質問(しつもん)があったことは、今後も調(しら)べていく力(ちから)にもなると思われます。また、そのようなことから講話している上野自身も、毎回(まいかい)、逆(ぎゃく)に子どもたちに教えてもらっていると感じています。
----------・・・----------・・・----------
・関係ページ:「今富城跡'(いまどみじょうあと)」 「皆同砲台跡(かいどうほうだいあと)」 「招魂碑しょうこんひ()」 白馬様(しらうまさま)=子どもと先生の守り神様(かみさま)」 「矢上の天満宮(てんまんぐう)」 「舟つなぎ石



最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク