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福重の写真集 その235

2013年 今富町老人会・郷土史講演会(概要報告)
 

日時:2013年9月209時30分〜11時30分 場所:大村市、今富公民館、参加者数:全体で20名、講演者:上野(福重郷土史同好会)

今富町老人会

今富町老人会での郷土史講演会の主な内容(概要)
1)今富の馬頭観音(ばとうかんのん)について
2013年9月現在も調査中ながら大村市内には、馬頭観音(下記の国語辞典を参照)が40数体あるようだ。今富町にはその内、高野と段と2体の馬頭観音がある。

 馬頭観音=六観音・七観音の一。宝冠に馬頭をいただき、忿怒(ふんぬ)の相をした観音菩薩(ぼさつ)。魔を馬のような勢いで打ち伏せ、慈悲の最も強いことを表すという。江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰されるようになった。(国語辞典の大辞泉より)


(イ)馬頭観音は「馬の神様」だけの意味ではない。
(ロ)馬頭観音の本来の意味:馬みたいに早く駆けつけ集落の災い・魔を取り除いて下さる。(6、7観音の一つ)
(ハ)現在、全国では農耕の神様、子供の守り神様、交通安全の神様などして祀られている所もあるようだ。

  高野と段の馬頭観音は、形も良く分かりやすい。(個別の詳細内容は省略)

2)竹松遺跡と彼杵群家中心地の疑問
 今年(2013年)6月7日に竹松遺跡について、長崎県教育委員会の発表があった。そして新聞やテレビなどで一斉に報道された。遺跡や遺物そのものについて、私は今までにないような、あるいは謎の多い古代県央地域の解明につながるのではないかと期待も持っている。しかし、長崎県や報道内容(「彼杵郡家の中心地=竹松遺跡」)や遺跡展チラシの見出しなどについては、大きな疑問がある。

 一番の疑問は、古代肥前国の役所=彼杵郡家の中心地が竹松遺跡にあったとの内容である。(遺跡展チラシにも「郡の都〜古代・中世の竹松」とのタイトルがある) かつて川の流れた跡があり、郡川の氾濫時に上流から運んできた丸形状の石ばかりで造られた石垣が遺跡周辺に沢山あるのに、本当に役所の中心地があったのだろうか。

 小規模の役所はあったかもしれないが、2町×2町(1町=約109m)位の大きな役所跡や大規模な建物跡が見つからない限り、大きな疑問があると言える。

 むしろ、寿古町の好武周辺が小高い丘のため水害にも遭っていないし、役所跡の可能性が高い。寿古町の伝承で「一度も水害に遭っていない」と言う(かまど)権現や地蔵が約263年間、無傷状態なのは水害に遭っていない証拠であろう。(詳細は「彼杵郡家(郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり」の「彼杵郡家(郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力」ページを参照)

3)福重史跡説明版と健康ウォーキング
 下記3基の福重地区内史跡説明版が今春(2013年3月10日)福重地区活性化委員会・観光部会によって設置された。(各説明版の詳細は省略。下記リンク先ページを参照)

・石走道祖神(この道祖神の詳細は、ここからご覧ください)
・線刻不動明王像(この史跡説明版の詳細は、ここからご覧ください)
・下八龍の線刻石仏(この史跡説明版の詳細は、ここからご覧ください)

  上記の史跡説明版は2013年4月19日付けの長崎新聞や6月10日、11日の大村ケーブルテレビの「歴史の散歩道」番組でも大きく報道された。今年度、来年度も徐々に説明版は増やされる予定と聞いている。

 健康ウォーキングや史跡巡りをされている方、何かの機会に、この史跡説明版も見学コースに入れられたら、どうでしょうか。 
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 講演終了後、「君の話は分かりやすかったよ」、「郡川の水害は子供の頃から何回も見てきたが、あそこ(竹松遺跡周辺)には大きな役所跡はなかやろうね」、「また機会あれば話に来て」などの感想を頂きました。今富町老人会の皆様、お疲れ様でした。また、重ねて感謝申し上げます。



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