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福重の名所旧跡や地形

石走道祖神((大村市重井田町)
石走道祖神(いしばしりどうそしん) 場所:長崎県大村市 福重町
 福重町の石走川近くの道路横に幅、高さとも約1mの平たい石があります。これは石走の道祖神と呼ばれている石です。ただし、「この石は道祖神ではないのではないか」との異説もあります。
(左写真は、石走の道祖神)
 
国語事典の大辞林 によると、道祖神(どうそじん、どうそしん)とは、「村境や峠にまつられる、禍・悪霊を防ぐ神。旅の安全をもつかさどる。婚姻や出産の神とされることもある。地蔵・猿田彦神と習合したものも多い。さえのかみ。手向けの神。道陸(どうろく)神。」と書かれています。

注意:このページ下段内容は古いため、上部の背景色が黄色部分や「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか? 」ページの(石走道祖神の)『道看』項目が、より正しい解釈と思われます。

石走道祖神の碑文が判明(2013年6月8日掲載分)
 様々な説のあった石走道祖神の碑文ですが、2013年4月28日の拓本作業をおこない、その後、大村市文化振興課の判断も仰いだ結果、ここに彫られている文字は、道看(どうかん)と言う文字と判明しました。(この件の詳細は、陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか? 」ページの(石走道祖神の)『道看』項目にも書いていますので参照願います)

石走道祖神の写真(黄色の線はCG加工線)
道看
上部が円相

  より、正確に述べるならば、道看の「看」の文字は、俗字の方です。しかし、その文字は、パソコン変換できない文字のため、先の通りにしています。ここまでの文字判定は、拓本作業実施後の先の事実経過通りです。次からの文字解釈は、あくまでも仮説も考えて解説していますので、ご注意願います。

 道看の意味を、仮に現在では「道観」と同じ意味だったとします。そして、その道看の解釈として国語辞典の大辞泉には、次の<>内のことが書いてあります。

 <道観=1 道教の寺院。道士のいる建物。観。 2 仏語。人を感化して善に導くことと、みずから空(くう)の理を悟ること。化道(けどう)と空観。 >


円相みたいなマークの意味は
  あと、この道看(どうかん)の上部にある丸いマークみたいなものが、はたして何なのかと言う疑問もあります。その一つとして、これは、「禅宗系の墓碑ではないか」という説です。(上部3列画像の右側参照) 円相について、国語辞典の大辞泉には、次の<>内のことが書いてあります。<円相=禅宗で、悟りの形象として描くまるい形。心性の完全円満を表す>

  実は、福重地区にある古い寺院跡には、これと同じようなマークのある石塔の残欠があります。それは、石走道祖神のある同じ福重町(旧・矢上郷)内の唐泉寺跡近くにあります。もしも、このマークが上部画像と同じように円相として、なおかつ禅宗系の墓碑としたならば、「道看という人の墓碑ではないか」との説も成り立つことになります。

 しかし、早急な結論や判断は、このような場合、早計です。何らかの史料その他が必要ですので、これからも調査、研究を進めたいと思っています。

(注:ここより下記内容は、2013年以前に掲載した内容)

 この石走道祖神について、『大村市の文化財』(改訂版47ページ、大村市教育委員会発行)に下記のように紹介されています。< >内が、その引用です。

  福重町の西北部、福重小学校裏手の道端にあり、「道有」と刻んだほぼ四角形の1mほどの石が立っています。やぼ神様といわれて、以前は現在の道路下方の水田側にあったのを、道路を高くした時に今の所に移したものです。以前あった場所には、小さな竹やぶがあり、「さわったり、竹を切ったりしたらバチがあたった」と言われており、土地の人は「いぼ神様」といって祭っています。

 「道有」とは道が有るということで、道祖神の一つです。道祖神とは昔から塞の神(さいのかみ)・幸の神(さちのかみ)・歳の神(さいのかみ)などといわれ、悪霊(あくりょう)などが村へ入り込まないように祭られた神様です。したがって、道路の無事を祈る神として、道路の十字路・村境・峠など主な道路沿いに多く、また縁結びの神・性の神に変わったのもあります。

 石走川の辺りは、海であったと思われ、満ち潮の時にはこの付近まで海水が来るという状態で、整備されるまでは土地が低くて湿地が多くありました。また、福重町は以前は矢上郷といっていました。矢とは「入江・湿地」の意味があり、その上手にある集落ということで、矢上と名付けられたと思われます。南側には「船つなぎ石」といわれるのが2か所に残っています。したがって、この道祖神のある所は、遠い昔、船着き場があって、郡岳に太郎山大権現があった頃から、ここを出発点に道が通じていたのだろうと思われます。 

「道有」文字の見方や、「道祖神ではない説」について
 ここでいくつか疑問があります。まずその一つとして、上記紹介文には< 「道有」と刻んだ (中略) 「道有」とは道が有るということで (後略) >と書かれています。刻んである文字は私も見ましたので、この通りです。しかし、この「道有」と言う読み方は、「道が有る」と言う説でいいのだろうかと述べられる方がいます。

 古代の文字の読み方は、「道が有る」と言うなら、「有道」と書くのが正しいのではないかと言う説です。つまり漢字の順序が逆ではないかと言うことです。このような書き方は、古代だけでなくかなり後の世まで漢字だけなら、そのように表記されてきたと思います。

 あと、上記写真の画像がホームページ掲載上粗くて見にくいかもしれませんが、真ん中の下部に「道有」の二文字が見えます。ただし、なぜこのように下側に書かれてあるのかと言うこともあります。さらに、「この文字は二文字だけなのか、さらにその下に文字があるのでは」と述べられる方もいます。このようなことから文字関係については、もう少し研究が必要と思われます。

 また、「そもそも、この石は果たして道祖神だろうか? 例えば墓碑ではないかとか、あるいは全く違うものではないだろうか」と言う異説もありますので、念のため、この説もご紹介しておきます。

一の鳥居と「強力」(ごうりき)と言う地名
 この旧・矢上郷(現在の福重町)の字(あざ)「石走」付近には、上記に記述されている太郎岳神社の一の鳥居があった所と言われています。つまり、神社にお参りに登るための入り口にあたっていたとも言えます。また、この近くには字(あざ)で「強力」(ごうりき、意味は修験道の案内人やポーターみたいな役目と思われる)と言う地名も残っていて、そのような方々が、この周辺に古代住んでいたのかもしれません。

 そして、ここから修験道登山を開始して、石走川沿いに字(あざ)の「強力」、「山の上」、「下八龍」、「上八龍」、「釈迦峰」などを経て、さらに御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝」、この滝周辺は当時山伏の修行場と言われている)を経由して、太郎岳(奈良時代の呼び名、後の郡岳)を目指していたと思われます。

 また、この道から南側(大村湾側)へは、当時の肥前国の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ、所在地は寿古の好武か)に通じていたと思われます。

(掲載日:2007年3月18日、一部改訂追加:2007年5月14日、一部追加:2013年6月8日)


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