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福重の写真集 その568
2022年 鎮西学院大学生(CSL)クジラ関係調査(概要報告)
(写真1) 鎮西学院大学東彼杵町歴史民俗資料館にて記念写真

鎮西学院大学生(CSL)クジラ関係調査(概要報告)
日時:2022年10月28日15時40分~16時15分)
参加:18名
(鎮西学院大学の教授、大学生)
案内と説明:上野
場所:東彼杵町歴史民俗史料館
主な案内場所:上記の2階
 ・深澤儀太夫三代、クジラ取り用の舟の模型、銛(もり)、クジラ取りの絵、クジラの骨などのあるクジラ関係の展示コーナー
 注1:今回このページ掲載写真は、順不同、写真整理番号には何の意味もない。


<用語解説>
・CSL=コミュニティサービスラーニングのこと。詳細は<鎮西学院大学の「地域貢献活動のリアルな体験から学ぶCSL」ページ>を参照。


概要説明
 上野が1階フロアーや2階のクジラ関係展示コーナーの前で、主に説明した内容は、下記点線内の通りであった。なお、趣旨を変えない範囲内で、分かりやすくするために発言内容の補足やリンク先なども加えている。

(写真2) 鎮西学院大学東彼杵町歴史民俗資料館2階にて
(写真3) 東彼杵町、道の駅・彼杵の荘看板(クジラとお茶で有名)
(写真4) 深澤儀太夫勝清
(写真5) 深澤儀太夫勝清が造った野岳ため池=野岳湖
(写真6) クジラ取りの絵図(東彼杵町歴史民俗史料館の展示絵)
(写真7) 勢子舟(東彼杵町歴史民俗史料館の展示)
(写真8) 深澤儀太夫勝清の陣笠(大村市東野岳町、儀太夫会館展示)
(写真9) 深澤儀太夫勝清の陣笠(東野岳町、儀太夫会館の展示)
(写真10) 深澤家由来の書籍箱(東野岳町、儀太夫会館の展示
(写真11) 深澤家の肖像画
 深澤家初期頃の系図
(大村ケーブルテレビのスタッフブログから複写)

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 こんにちは。ここ東彼杵町は、別名「クジラの町」と呼ばれるくらい、現在でもクジラの取り扱いの多い所だ。しかし、皆様の調べたいクジラ(鯨)の流通経済について、私は私なりに本を見て、また、地元・東彼杵町の方に聞いてみた。しかし、江戸時代や近世の書籍類にも、また地元伝承にも、その東彼杵町から先の流通などの詳細内容は、ないとのことだった。ただし、西彼杵半島側の町には、どのような取り扱いや流通などについて、何か残っているとも聞いたが、今回は、その町まで行って調べていない。

クジラ(鯨)は捨てるところが無い
 昔から、「クジラ(鯨)は捨てるところが無い」といわれている。その通り、まず、鯨肉(食用)鯨油(燃料、ろうそくの原料、潤滑油など)工芸品(一例:ブローチ、カウスボタンなど)ヒゲ弦楽器の弓などと、日本人は昔から獲れたを全部使って無駄にしていない。それに比べ西欧は、鯨油をとるのが主目的だった。

クジラは巨万の富をもたらした
 昔から「クジラ一匹(頭)で七浦潤う」との言葉がある。この場合の「浦」=「村(漁村)」でも良いと思う。つまり、クジラ(鯨)1頭獲れれば、7つの村の人口に匹敵する、たくさんの人達が潤う(儲かる、生活できる)ということだ。江戸時代の村の人口が、いくら位だったか不明ながら、少なくても何千人という人に恩恵があったし、クジラ(鯨)は巨万の富をもたらしたのは、間違いない。

 また、先に「クジラ(鯨)は捨てるところが無い」といった通り、単に直接的なクジラ(鯨)取りの漁民、販売する仲卸(なかおろし)や小売(こうり)業者だけが儲かるだけではなく、クジラ工芸など加工業も含めて様々な別業者へも潤いをもたらし、裾野(すその)が広かったと思う。

なぜクジラ取り(漁民)が中山間地に沢山のため池を造ったのか?
 私は、当初、なぜクジラ取り(漁民でもある)が、大村市内や東彼杵町内に野岳湖をはじめなぜ、沢山のため池を造ったのか、分かっていなかった。ある方から、主な理由は、下記の(1)〜(3)のことだろうと、教えて頂いたことがある。

 (1) 深澤儀太夫の三代とも(殿様より大金持ちながら)質素倹約家で、クジラ取りで得た巨万の富は、主に公共事業工事に使ったという。(補足:何の工事でも資金が必要である) 注意:この方の言われた「深澤儀太夫三代」の表現は、少し血縁関係が複雑なので後の項目に詳しく書いている>

 (2) 大村藩から、ため池の造成の要請(コメが増産できれば藩への税金も増えるから)があったからだ。(地元の農民からの要望もあったとも言う)

 (3) クジラ取りは、命をかけて激しいエネルギーを使う作業だった。そのこともあり、栄養価もあるコメが沢山必要だったという。それでコメが沢山とれるようにと、ため池などを造ったのではないか。

 これら(上記のこと)は、江戸時代、同じく大金持ちだった紀州(和歌山県)のミカンなどで大儲けして有名な紀伊國屋文左衛門(きのくや ぶんざえもん)が、(通説では)散財した話と、全く違うようにも思った。

江戸時代、大村領内で何故、餓死者が出なかったのか?

 江戸時代の大村領内では、餓死者が出なかったという。これは全国で沢山の犠牲があった中で、珍しいとも言われている。この要因は、稲作同時にサツマイモも多く栽培したことが大変大きい。プラスして虫の嫌がる匂いのする鯨油を段々畑(水田)の高い所から流したので、防虫効果もあったからとも聞いたことがあった。 (補足:この鯨油と防虫効果の件は、古記録に書いてないようで真偽は定かではない。ただし、サツマイモ栽培を大村領内で沢山したことは、「2007年度、大村市郷土史講演会「米はなくても芋・いわし! 江戸時代・大村人の食生活」(概要報告)ページを参照)

クジラとペリー提督との関係
 アメリカのペリー提督(注:下記の用語解説を参照)は、なぜ日本に来て、日米修好通商条約(「開国」)を迫ったのか? 実は、クジラとの関係もある。それは、当時、アメリカの漁船は、主に鯨油をとるために太平洋に進出してクジラを追いかけていた。

 その漁船の燃料、船員の食糧、水などの補給のために日本を経由地(港)として求めていた。そのため、ペリー提督は、日本へ通商(「開国」)を迫ってきたのだ。日米修好通称条約は有名だが、その要因として、クジラとの関係があったことは、あまり知られていないと思われる。

補足:日米修好通商条約の締結前も「黒船(軍艦)が来た」と当時の日本では、騒動になった。さらに、この条約締結後しばらくして、近代日本の大激動期=明治維新にもなっていく。影響の大小は別としても、クジラ(捕鯨)が、それらの遠因になっていたのは、ある意味興味深いことと思う>
用語解説
ペリー(Matthew Calbraith Perry)
アメリカの海軍軍人。1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠征記」3巻を刊行。ペルリ。漢字名、彼理。(1794〜1858)

日米修好通商条約
1858年(安政5)神奈川で、アメリカ駐日総領事ハリスと下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震ただなりとの間で締結調印された条約。公使・領事の交換、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、貿易の自由などを決めたが、領事裁判権を定め、また関税自主権がないなど、日本に不利な点が多かった。→安政五カ国条約→条約改正。

九州で鯨組の草分け
 この東彼杵町歴史民俗史料館にも肖像画が展示してある深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)ついて、述べたい。(下記の用語解説を参照) 深澤勝清は、波佐見町で育ち、30歳の頃に武者修行で紀州(和歌山県)にも行った。その時、鯨(クジラ)取りを見て学んだ。帰郷して大村藩の許可を得て、鯨組(くじらくみ)を組織化して、クジラ取りを始めた。その人数の正確かつ詳細は不明ながら、一説には数百名とも、それ以上とも言われているようだ。また、この大勢で鯨組をつくって、とる方法は、九州で草分けとも言われているようだ。
擁護解説>(日本人名辞典プラス」より)
 「深澤勝清(ふかざわ かつきよ)1584-1663 江戸時代前期の捕鯨業者。天正
(てんしょう)12年生まれ。紀伊(きい)の太地(たいじ)で銛(もり)をつかう捕鯨法をまなび,肥前大村藩領松島(長崎県)などで九州初の鯨組を組織した。はじめ浅井太郎左衛門と称したが,藩主大村純長(すみなが)より深沢姓をあたえられ儀太夫勝清を名のった。寛文3年3月17日死去80歳。
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・「義太夫」は尊敬語であり、深澤家の本家だけ名乗っていたと言う
 そのこと(先に書いた鯨組の始祖)について、「儀太夫」の「太夫」は芸能一座の太夫(一座の長、英語ならトップやリーダー)と同意義語であろう。つまり、「儀太夫」とは、この場合、鯨組を始めた九州で草分けの存在を表す深澤家に対する尊敬語であり、他の鯨(クジラ)取り組は、呼称していなかったともいわれている。また、深澤家の本家だけ使えた名称だったとも聞いている。

 また、この深澤儀太夫勝清は、捕鯨で得た巨万の富で、大村藩からの要請もあり、野岳ため池(野岳湖)などを造った。当時は、コメ増産のための灌漑用ため池が主目的だったろう。しかし、現在の野岳湖は、農業用のため池にとどまらず防災効果、さらに湖畔周辺部も含めれば観光、スポーツや、家族で楽しめる公園にもなっている。さらには、新茶祭りや各種イベントなどでの物産販売などあれば、経済効果もある。

 しかも、没後350年以上経っているのに毎年春には、深澤儀太夫の遺徳を讃えて儀太夫祭りが開催されている。大村市内や長崎県内にも偉人や有名人は、多くいらっしゃる。しかし、死後350年以上経っても多くの方から慕われ、さらには野岳湖を中心に、農業や観光など様々な分野で、さらには年間何十万人の方々が訪れる場所が、県内の他の場所に沢山あるだろうか? 上野は個人的に、深澤儀太夫勝清は、今なお多くの人から尊敬を集め、その功績(業績)が現在も生き続けて、県民に多大な貢献をしている、まさに最も長崎県内で功績のあった人(偉人)ではないかと思っている。

深澤家と、たくさんの公共事業
 <注意:右側の(写真11)左側に肖像画があるが、上から深澤儀太夫の初代の「勝清」と二代目「勝幸」である。最下部は「深澤(松島)与五郎幸可」である。詳細は深澤家の系図を参照願いたい>
・深澤家について
 上記の注意内容と重複するが、 東彼杵町歴史民俗史料館(2階)の掲示物を参照すれば、深澤儀太夫の初代「勝清」二代目「勝幸」と「松島(深澤)与五郎幸可」の肖像画(写真11参照)とともに、写真右下側の通り深澤家の略歴も表示されている。

 大村市内などで良く聞く「深澤家三代」との表現について、補足を書く。この言い方は、あくまでも一般に呼称されている言葉であって、例えば祖父-父-子-孫みたいな実父子の繋がりではないようだ。初代の深澤儀太夫勝清には息子がいなかったので、彼の弟の勝幸が二代目を継いだとの説もある。

 また、三代目は、二代目勝幸の長男で深澤儀太夫勝直が継いでいるようだ。しかし、一般には、「深澤三代」などと呼ばれているのは、次男(かつ初代勝清の養女の婿)深澤儀平次重昌(ふかざわ ぎへいじ しげまさ)を言うようだ。ただし、この人は、「三代目」と呼ばれていない書籍類もあり、分かりずらい。なお、深澤家は七家系あるようだが、その内容は、ここでは省略する。

 あと、私は一般の呼び方に従って「深澤家三代は、深澤勝清深澤勝幸深澤儀平次重昌」のこととして、さらに書いていくことにする。上記通り、血縁関係は様々な説も含めてあるようだ。しかし、いずれにしても深澤家や「深澤家三代」とも共通している事柄もある。それは、捕鯨をおこない巨万の富を得て、大村藩などからの要請もあり、ため池の築堤はじめ各種の公共工事を各地でおこなったことである。これら個別の紹介は、後の項目に分けて書いている。

深澤家初期の系図について
 ここで極簡単ながら、深澤家初期頃の系図を紹介したい。右列の「深澤家初期頃の系図」を参照願いたい。初代の深澤儀太夫勝清と、二代目の深澤儀太夫勝幸は、大村市内外でも有名なので、説明は省略したい。補足ながら、この「儀太夫」と付くのは、深澤家の本家筋のみの名前と以前聞いたことがあった。

 そして、三代目といえば通常、二代目の深澤義太夫勝幸」の長男である「深澤儀太夫勝直」と思われる。しかし、勝直は捕鯨家ではなく、大村家の家臣になったようだ。そのため、東彼杵町の三木場堤(池)の横にある深澤家三代の憲章記念碑には、初代、二代目は上記通りだが、三代目として深澤儀平次重昌の名前が彫ってある。

 この深澤儀平次重昌は、系図上では二代目の次男になるようだ。また、儀平次重昌はは、下記にも書いているが、捕鯨をやりながら、太田代堤や綿打ち堤をはじめ公共工事もおこなっている。そのようなこともあり、先の深澤家三代顕彰記念碑に名前があるのであろう。

深澤家の公共事業(ただし、堤=ため池のみを掲載)
 下記項目は、一般にいわれている深澤家三代による公共事業(工事)を代数別に書いている。ただし、その内容は、主に灌漑用の(つつみ) ため池(後世呼称の「」含む)の築造が中心である。また、ため池に水を供給したり、その池から田畑へ水を流す井手(用水路)も整備されているが、私は江戸時代の古記録類全部を調べきれていないので、今回の記述は省略している。

 なお、深澤家は、先の(ため池)井手(用水路)などの(農業用)灌漑施設だけでなく、分かりやすい例として、例えば深澤家の邸宅を本陣として提供、(当時の)円融寺の庭園を造園、大村藩へ運上金(藩の財政資金)などへも多額の寄進(寄付)をしているが、それらは機会あれば別のページに掲載しようと考えている。(注:下記の(ため池)名称後の「大村市野田町」や「東彼杵町・・・郷」は、所在地(現在の町名)である)

初代 深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)
 ・野岳大堤(のだけ おおつつみ=野岳湖=野岳ため池)---大村市東野岳町
 ・三井木場堤(みいこば つつみ)---東彼杵町平仁田郷

 注:右側写真は儀太夫会館にて開催の「儀太夫祭り」の時に肖像画を撮影したもの。
二代 深澤儀太夫勝幸(ふかざわ ぎだいゆう かつゆき)
 ・赤似田堤(あかにた つつみ) ---大村市野田町
 ・本倉堤(もとくら つつみ=本蔵堤=元蔵堤)---大村市野田町
 ・蕪堤(かぶら つつみ)---東彼杵町蕪郷
 ・鹿ノ丸(かのまる つつみ)---東彼杵町中岳郷
 ・中堤(なか つつみ)---東彼杵町中岳町
 ・瀬滝(せだき つつみ)---東彼杵町

 注:右側写真は東彼杵町歴史民俗史料館の展示物を撮影したもの。
 
 深澤儀平次重昌(ふかざわ ぎへいじ しげまさ)
 ・太田代堤(おおだしろ つつみ)---東彼杵町一ツ石郷
 ・綿打堤(わたうち つつみ)---東彼杵町一ツ石郷

 注:右側写真は、三代目が築造した綿打堤(東彼杵町一ツ郷)で手前が(ため池や堰堤)。奥の山は郡岳(こおりだけ、826m。大村市重井田町)である。
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)

 深澤与五郎幸可<ふかざわ よごろう こうか>
 注1:上記の「」の漢字は昔の難しい方である。
 注2:この人は「松島与五郎幸可」とも呼ばれていた。


 (この項目は、準備中。しばらく、お待ちください)

 (写真は、準備中) 

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<質疑応答>

 (この質疑応答は既に上記もしくは下記内容とも重複内容になるので省略する)

補足その1:「クジラ(鯨)はすてるところが無い」の図
 上記の説明の中で、上野は、「クジラ(鯨)は捨てるところが無いとの話をした。例えば「鯨肉(食用)鯨油(燃料、ろうそくの原料、潤滑油など)工芸品(一例:ブローチ、カウスボタンなど)ヒゲ弦楽器の弓などと、日本人は昔から獲れたを全部使って無駄にしていない」などと説明した。そのことが、具体的に分かるクジラ(鯨)の図があったので、下記に掲載している。

 下記は、「くじらの町(東彼杵町役場)」という冊子の4~5ページに掲載されているクジラ(鯨)の図である。このは、大変分かりやすので重複した説明はしない。とにかく、クジラ(クジラ)は頭から、胴体、尻尾(尾羽)の先まで様々な用途に利用され、人々の役に立ち、無駄にならないことがが良く理解できる。 (ご参考までに、この「くじらの町(東彼杵町役場)」という冊子は、「道の駅 彼杵の荘」の観光案内所カウンター近くに置いてあった)

(画像A) 冊子:くじらの町(東彼杵町役場)の4~5ページ(縮小版。実物は1ページがA5サイズで見開き版)

補足その2:東彼杵(彼杵港)は鯨の”流通センター”
 
このページ=鎮西学院大学生(CSL)クジラ関係調査の主目的は、江戸時代や近代に鯨(クジラ)が、どうやって流通していったかというのが命題だった。これを簡略化して表現すれば、「鯨の流通経済」を調べることだった。この点だけでいえば、「東彼杵町は江戸時代から鯨の市場、そして消費地(販路)への出発地点だった」とまでの大枠は、私も学生の頃より知っていた。

(画像B) 冊子:くじらの町
(東彼杵町役場)の表紙(縮小版)
 しかし、もっと具体的で詳細な古記録(例えば年間の鯨の頭数、販売高、市場関係者数、販売ルートなど)がないのか、調べたかった。そのため、私は、今回の説明前に、その鯨の流通(経路)を調べるため、江戸時代の大村藩によって編纂された「(大村)郷村記」を始め古文書類がないか探してみた。また、東彼杵町在住で、鯨に詳しい方3名にも聞いた。

 しかし、結論からいえば、先の「」内の大枠内容にプラスすることはできなかった。ただし、西海市崎戸町には、「この種のことが少し詳しい記述があるのでは?」とのことだったが、説明会までに現地調査できなかった。

東彼杵(彼杵港)は鯨の流通センター
 上記のようなこともあり、東彼杵町からの鯨の流通経路や各地に及ぼした関係内容は、現時点では不明である。しかし、東彼杵町内だけならば、分かりやすい紹介文があった。

 それは、「くじらの町(東彼杵町役場)」という冊子(右上側画像はその表紙の縮小版、実物はA5版サイズ)の2ページに掲載されている記事と写真である。その一部分ながら、下記の青文字<>内に、その内容を引用して掲載している。

(画像C) 冊子:くじらの町
(東彼杵町役場)の2ページから複写(縮小版)
 (前略) 元禄年間に築かれた彼杵港は、江戸、明治、大正を通じ、有数の鯨肉中継基地でした。明治中頃には、五島列島の近海で獲れた鯨を有川港周辺で解体して彼杵港に運んだと言われています。

 市場に陸揚げされた鯨は、数十人の仲買人や行商人によって威勢のよい競りにかけられ、九州各地に運ばれました。仕入れた鯨などを大きな籠に入れ、夜明け前から肩に天秤棒をかついで先を争う行商の人たちで彼杵宿の朝はにぎわいました。

竹かごに入れた鯨肉を売り歩く娘姿も見受けられたそうです。このような光景は昭和の初めごろまで続きました。彼杵港の船着き場には石段が造られ、現在もその跡を見ることができます。>  (以降は省略)


 上記の青文字<>内紹介文の通り、江戸時代から現在に至るまで長年、東彼杵町は鯨(クジラ)の販売や流通の拠点である。そして、現在でも例えば「県内で唯一の入札会」(冊子「くじらの町(東彼杵町役場)」の6ページ参照)がおこなわれていることからも。それが良くわかる。つまり、上記の画像通り、東彼杵(彼杵港)は鯨の”流通センター”である。

補足その3:クジラ(鯨)料理などの一例


 ()この補足その3の原稿や写真は準備中。しばらく、お待ちください)



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・主な関係ページ:鎮西学院大学 、東彼杵町歴史民俗史料館  、 

(初回掲載日:2022年10月30日、第二次掲載日:11月6日、第三次掲載日:11月18日、第四次掲載日: 月 日、第五次掲載日:12月18日、第六次掲載日:2023年1月13日、第七次掲載日:2023年2月15日、第八次掲載日:2月21日、第九次掲載日:2月27日、第十次掲載日:2024年1月16日)



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