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福重の名所旧跡や地形

本蔵権現(野田町)
本蔵権現(もとくらごんげん) 場所:長崎県大村市 野田町
2017年12月24日完成の拝殿 2017年12月24日、拝殿の新改築完成祝いの記念写真
 この本蔵権現(もとくらごんげん)所在地は、大村市野田町の本倉(もとくら)にあります。呼称について旧字に「本倉」があり、現在も使用されていますが、(大村)郷村記や参道にある鳥居には「本蔵」との名称ですので本蔵権現の表記で統一致しました。下記に大村郷村記と国語辞典を引用しながら、本蔵権現を紹介します。
(上記写真2枚は2017年12月24日、新改築され完成した拝殿。左写真は、以前の本蔵権現の拝殿)

  「権現」とは、国語辞典の大辞泉によると、 1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること。  2 仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類。  と、書いてあります。

 下記に
大村郷村記を引用しながら、この野田の本蔵権現について、紹介します。下記の 内が、その文章です。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

野田の本蔵権現の鳥居
秋の例祭、子ども相撲
本蔵権現の石祠(左側面に碑文がある)

 「 野田 一 本蔵権現
   神躰石坐像 例祭九月十三日 宝円寺勧請 氏子中祭之
  石祠
   拝殿 弐間梁三間 萱宇    
  石鳥居  壱基    
  境内 拾八間方程

 当社は元佐奈河内にあり 此処村より隔リ諸事不勝手なるゆへ 万治元年戌年九月此地に奉還座開眼導師観音寺法印寛盛 享保四巳亥年拝殿一宇再建安永二巳年再建 文化五戊辰年九月石祠に建立 

 上記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

  野田 本蔵権現 ご神体は、石の坐像である。例祭は(毎年)9月13日に宝円寺に来てもらって執りおこなわれている。石の祠がある。拝殿は、横3.6メートル、奥行き5.4メートルである。石の鳥居が、一基ある。

 当社(野田の本蔵権現)は、元(の位置は)佐奈河内にあったが、この村より遠く、色々な行事をするため不便なため、万治元年(1658年)九月この地に移した。享保四年(1719年)、拝殿を1回再建し、さらに安永二年(1773年)にも再建した。文化五年(1808年)には、石祠を建立した。 >

元々は立福寺の佐奈河内にあった

  先に述べた通り、この野田の本蔵権現は、元々(当時の龍福寺郷=現在の立福寺町)佐奈河内(さながわち)にありました。この権現様のあった地点がどこななのか探していたところ、佐奈河内と言う地名(字)はあるのですが、この地名の所は広いため、場所の特定まで最初は分かりませんでした。

 それでも、立福寺町の方々にお聞きしたところ、松添さん宅周辺に「堂山(どうやま)」と呼ばれる所があることを教えて頂きました。。念のため、この「堂山」は、地名(字)ではありません。ただし、堂山の「堂」は通常、神社やお寺などの「本堂」などの呼び名から来ている場合が多いです。

 そのことから(これから私の推測ではあるのですが)この「堂山」付近は、当時の「佐奈河内大権現」のあった場所、もしくはその堂の裏山、あるいは拝殿を建てるために木材を切り出した山と言う由来があるように思われます。

 いずれにしても、この場所は野田郷の集落から遠いため、万治元年(1658年)9月に現在地に移されました。また、野田町の古老からは(大村弁で)「あん、本蔵の権現様は元おらした佐奈河内の方ば向いて立っておらすと、先祖様から聞いたバイ」と言っておられ、そののような伝承があることも知りました。

 2007年現在、移転後から通算しても約350年になります。元の佐奈内河にあった年数は不明ですが、拝殿の創建直後に移したのではなく、しばらくしてからと思われますので最低でも400年以上の歴史がある神社と考えられます。

 拝殿は、江戸時代も、それ以降も50年位から80年位ごとの間隔で改築されたと思われます。 なお、1953(昭和28)年、現在の野田町公民館が出来るまでは、ここで各種会合が開催されていました。拝殿内も、そのような会合ができるように、今より倍くらい大きかったということです。現在も毎年秋の例祭を初め、各種行事がおこなわれています。

<右側の活字版>
<本蔵権現の石祠碑文の拓本>

本蔵権現の石祠の碑文
 この石祠は、境内の地面より一段高い所に、右上側写真の通りあります。また、その石祠の左側(北側)面には、右下写真(拓本作業中)の通り、碑文が彫られています。その碑文を活字化したのが、左表画像の<右側の活字版>です。 

 実は、この項目の詳細は、本蔵権現の石祠ページに掲載中です。そのため、本ページでは、先のリンク先ページ内容の多くを省略して、石祠の碑文の現代語訳のみを書いています。

・現代語訳
 碑文を現代語訳しますと、次の「 」内の通りと思われます。なお、( )内は、送り仮名あるいは上野の補足や注釈です。念のため、あくまでも素人訳ですので、参考程度にご覧願います。

 「 (本蔵大権現へ)奉って(たてまつって)(石祠を)寄進する。 供養導師(注1)は宝圓寺(注2)第十代
の寛澄法師である。(石祠の建立年月日は)文化五戊辰(つちのえたつ、ぼしん)年(1808)十一月吉祥日(注3)である。

(建立に当たっての寄付者世話役の)頭(かしら)は、淵勘右衛門(注4)である。(寄付者は)山口吉左衛門(注4)、重右衛門、仙三良、八次良と、(野田郷内の)全ての氏子(うじこ)である。 

 (注1)この場合は、毎年の祭礼時あるいは石祠建立時に祭って下さった僧侶という意味であろう。
 (注2)江戸時代末期まで、池田山にあった宝圓寺(宝円寺)のことである。
 (注3)(国語辞典の大辞泉より)陰陽道(おんようどう)で、何事をするにも吉とする日。きっしょうにち。

 (注4)この場合、二人のフルネームは武士で、他は百姓であろう。

拝殿改築の歴史
 拝殿の改築年の歴史は、江戸時代の(大村)郷村記、明治時代の棟札(むなふだ)、戦後の野田公民館完成後の地域伝承、2017年の新改築などで分かる。その改築年が判明している分としては、下記の通りである。
 江戸時代では(大村)郷村記には、・享保4年(1719) 、 ・安永2年(1773) の記述がある。

 近代では棟札に、・明治24年(1891)7月3日。 ・昭和28年(1953)の野田公民館完成後頃に「滅築があった」との地元伝承がある。

 ・現在の新改築として2017年11月から二か月かけて野田町の郷山(町有林)と(農業団体)実行組合、町民からの寄付を資金にして拝殿が建て替えられ、12月24日に完成落成式が挙行された。


(初回掲載日:2007年10月27日、第二次掲載の追加・改訂:2017年12月10日、第三次掲載:2017年12月30日、第四次掲載:2017年12月 日)


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