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2022年、(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」ガイダンス(概要紹介)
(写真1) 郡中学校1年生、総合学習のガイダンス(手前側は生徒、奥側は先生が諸準備中)
 (写真2) 中央奥側は上野の自己紹介中。その右側は先生、手前側が1年生
 
 (写真3) 掩体壕の正面(原口町)

(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」ガイダンス(概要報告)
日時:2022年10月19日 14時45分~15時30分
参加数:全体で約222名(生徒211名、先生11名)
場所:大村市立郡中学校・体育館

趣旨:上記の通り、郡中学校にて「郡地区の空襲と戦争遺跡」についてのガイダンスが、10月19日にありました。また、25日には講話、そして26日には、校外学習として福重地区に残る戦争遺跡巡りが予定されています。今回このページ内容は、上記の中で、ガイダンスについての概要報告です。 まず、担当の先生から一連の「総合的な学習」の日時含めた説明や上野の紹介もありました。その後、2021年8月11日、大村ケーブルテレビで放送された「あの時は忘れない」番組=「竹松空襲と戦争遺跡」を全員で視聴しました。なぜ、この番組の上映だったのかといいますと、10月26日予定の校外学習(空襲や戦争遺跡巡り)で竹松地区に行きたくても、その時間がないためです。

(写真4) (奥側のスクリーンで、放送録画の視聴中
(写真5) 冊子竹松地区の空襲」の表紙
(写真6) 福重飛行場(上部が今富町、下部が皆同町)
 (写真7) 福重飛行場跡近くの誘導路橋の土台跡(今富町)
 下記の放送録画内容(「竹松空襲と戦争遺跡」)は、主な場面のみを列記したものです。放送内容の順番も、ほぼ下記の番号順でした。
放送録画の内容:「竹松地区の空襲と戦争遺跡」(概要紹介)
1)竹松地区の空襲写真の説明

 ・竹松地区には大村海軍航空隊第三五二海軍航空隊(略称:三五二空、通称:草薙部隊)などの軍事施設があった。
 ・1945(昭和20)年3月18日、大村海軍航空隊へのアメリカ軍による空襲
 ・竹松地区のほぼ全域が空襲に遭った。
 ・草地の飛行場だけでなく、その周辺にあった誘導路や駐機場、さらには住宅地にまで空襲が遭った。

2)佐奈河内川の川床にある誘導路橋の基礎部
 ・この場所は郡川架かる矢次橋の先(福重地区の今富町側)に佐奈河内川の川床にある
 ・この誘導路橋で飛行機を押したり、引いたいして移動させていた。
 ・川床に2個のコンクリートの基礎部がある。
 ・大きさは幅約1m、長さ約30mで、丸い穴(橋脚の丸太があった所)が同じ間隔で空いている。
 ・戦前からあるのに頑丈そのものだ。

3)竹松小学校は甚大な被害
 ・竹松小学校の空襲が特に激しかったのが、1945(昭和20)年7月5日、9日で校舎に大きな被害が出た。

4)掩体壕(えんたいごう)の説明
 ・原口町、下原口公園内に掩体壕がある。
 ・掩体壕とは、分厚く頑丈なコンクリート造りで、空襲から飛行機を守るための格納庫のことである。
 ・現在の大きさは高さ約7m、横幅約27.5cm、奥行約15mである。(注:戦争当時と大きさが少し違っている)

5)竹松の忠魂碑
 ・昊天宮(こうてんぐう)内に、主に戦争で亡くなられた軍人の慰霊碑がある。
 ・この慰霊碑には空襲に遭われた軍人犠牲者も祀られている可能性もある。
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<質疑応答>
 竹松地区の空襲と戦争遺跡の放送録画を視聴した後、質疑応答がありました。その主な内容は、次のQA通りです。なお、分かりやすくするため、このページでは少し補足もして書いています。なお、当然、下記のQ(質問)は1年生、A(答え)は上野の発言です。

Q1:なぜ空襲などを調べ始めたのか?
A1:歴史は縄文・弥生・古代・中世・近世・近代・現代と連続している。最初は、福重の石仏史跡などを調べていたが、近代史で戦争史も出てくるので、それも調べ始めた。次に広島・長崎原爆は世界史的大事件で、しかも大きな犠牲者だったが、身近な大村、この郡地区でも多くの犠牲者や空襲によって沢山の人が焼け出されたことが分かったからだ。そして、今後も、そのようなことを伝えようと思い、「福重ホームページ(空襲や戦争遺跡シリーズ)を掲載している。

Q2:いくつ戦争遺跡は、あったのか?
A2:現在では大村市内全部の戦争遺跡についての書かれた書籍類や正確な記録がない。また、今では住宅地・工場・道路・田畑などになってしまって遺跡そのものがなくなったので、調べること自体が難しくなっている。分かった範囲内で、「福重ホームページ(空襲や戦争遺跡シリーズ))に徐々に掲載中である。長期の宿題にさせて下さい。

Q3:大村海軍航空隊にいた人数は?
A3:人数についての記録が残っていないし、本などにも書いていなかったと思うので、正確にいえば人数は不明である。。推測は良くないが、例えば練習機・戦闘機の数が、50〜70機位あったとしたら、そのパイロット(訓練生など)も同人数位はいたと思う。また、その指揮(教官や管理)する人などの数、さらには広い飛行場などを維持管理する人、その他含めれば、かなりの人数はいたであろう。これも宿題として今後も調べていきたい

 以上が、主な質疑応答の概要でした。その後、25日の講話、26日の校外学習などについて、先生の方からありました。今回のガイダンスに参加された先生や生徒の皆様、お疲れ様でした。
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*関係ページ:10月25日の講話や10月26日の校外活動(戦争史跡巡り)と関係した事項のリンク先は、下記の通りである。なお、一部、戦争遺跡とは全く関係ない名所旧跡(めいしょきゅうせき)内容もある。なぜなら、それは、戦争史跡の直ぐ横、もしくは近くにあるので、参考までに紹介している。)

<福重地区>
 ・沖田町---第三五二空(通称「草薙部隊(くさなぎ ぶたい)(戦闘機の迎撃部隊)現・郡中学校の敷地から宮小路周辺までの敷地(写真1を参照)

 ・皆同町---<今富城跡>、皆同砲台(海軍指揮所と思われる地面上部で空襲対策のコンクリート屋根・空気採り入れ口など) 、 (皆同町側の)福重飛行場跡(使われていた当時は長さ950m幅30mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない.。「(皆同町側の)史跡説明板」あり )、  <皆同の侍の墓

 ・今富町---(今富町側の)福重飛行場跡(使われていた頃は幅30m、長さ950mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない。滑走路全体の長さで今富町側の方が約80%であった。「(今富町側の)史跡説明板がある。 佐奈河内川の川床には現在も誘導路端の橋脚を支えた丸い穴がいくつもあいた頑丈な幅約1m×長さ30m弱のコンクリート製の基礎=土台部が残っている) 、 

 <佐奈河内川の今富橋周辺は2020年の水害で大被害が遭った> 、<尾崎城跡(おさきじょうあと) 尾根部の先端所で一説では豪族の今富氏の居城で本丸から三の丸まであった城ともいわれている> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑

 <大神宮>、<亀石>、<石割樫>、招魂碑(氏名が彫られた石碑には軍人だけでなく空襲で犠牲になられた民間人の名前もある) 、<黄金山古墳> 、<今富キリシタン墓碑> <中田橋周辺の市道(通学路でもある):2020年水害時にアスファルト舗装がめくれるほどの被害が出た。この周辺の水田も被害が大きい

 今富橋(今富公民館)周辺の尾根や、字(あざ)丸山」や市道脇6つの隧道(ずいどう)などには21航空廠廠の疎開(そかい)工場倉庫があった。防空壕にしては少し大きかった。

(写真9) (中央やや右側が)村海軍航空隊 1994年の航空写真<上記写真は「軍都」大村の歩みと市民の6~7ページの写真をトリミングしたもの>
草地の飛行場を中心に隊舎や畜舎などもあった。(場所は右から旧・大川t田郷・今津郷・黒丸郷などに飛行場はあった)
上部の直線道路は現在の国道34号線、左端側は郡川、下部は大村湾<注:左上側の「第三五二空(通称「草薙部隊)」>


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