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2021年、(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話(概要紹介)
(写真1) 郡中学校1年生、「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話(奥中央部で立っているのは上野)
(写真2) 郡中学校1年生、「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話 

(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」講話(概要報告)
(写真3) 郡中学校1年生
 (写真4) 松原小学校の校舎前にある「松原の救護列車の碑
(写真5) 現在の郡中学校の敷地=
第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡
(写真6)  皆同砲台の極一部 (皆同町)  
(写真7) 福重飛行場跡(右側)、今富町 
(写真8) 招魂碑(左側)、今富町
(写真9) 福重砲台跡(地下室への入口)、今富町 
(写真10) 福重飛行場跡近くにある誘導路橋の土台(今富町)
(写真11) 福重飛行場(当時:長さ950m、幅30m)

日時:2021年10月7日 14時35分~ 15時25分
参加数:全体で約225名(生徒215名、先生 名)
講話担当:上野
場所:大村市立郡中学校・体育館

趣旨:郡中学校1年生は、今年10月14日、校外学習「郡地区の戦争遺跡巡り」が予定されている。また、その前には6日にはガイダンス、7日は「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話があった。今回ページ内容は、その講話内容(概要)である。

講話内容:「郡地区の空襲と戦争遺跡」(概要紹介)
<空襲(主に犠牲者数と火災戸数)>

1)松原地区-----空襲や軍事施設(戦争遺跡)は、ほとんどなかった。ただし、松原地区は他の地区からの疎開先(この場合、空襲地域から逃れて仮住まいしたとの意味)であった。また、松原小学校は、長崎原爆•被害者の救護支援の場所になった。その記念碑も校舎前にある。<注:(写真4)=松原小学校の校舎前にある「松原の救護列車の碑」と、そのリンク先ページを参照>

2)福重地区-----犠牲者11名以上(ただし軍人の戦死者は除く)。 この中には年齢9歳の福重小学校の児童や赤ちゃんもいた。この児童は1995(昭和20)年7月5日にアメリカ軍機の機銃で射殺された。あと終戦まで1ヶ月少しだった。 火災戸数は41戸以上

3)竹松地区-----犠牲者11名以上(ただし軍人の戦死者は除く)。 この中には名前不明の娘さん(たぶん幼児=赤ちゃんか?)も空襲で亡くなった。  火災戸数は117戸以上

<クイズ>
 ここでクイズを出したい。ノーヒントで正解した人には、この冊子(「福重の石仏」)をプレゼントする。
Q1:なぜ、竹松・福重地区は空襲が多かったのか? 両地区には、共通してあるものがあったからだ。それは何か?(漢字3文字で答えなさい)
A1:福重・竹松両地区には、共通して飛行場(竹松には「大村海軍航空隊」、福重地区には「福重飛行場」)があったからだ。当時の戦争の勝敗を決めるのは、航空戦力であった。アメリカ軍機が日本を攻撃(空襲)する時に恐れたのが日本軍の飛行機で、それがある飛行場を狙って、その周辺(誘導路や駐機場)にあった住宅地までも激しい空襲をしたから多くの犠牲者と、火災(戸数)があった。

<戦争遺跡(軍事施設の跡)>
1)現在の郡中学校の敷地=第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡。この航空隊の目的は九州北部を攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機へ迎撃戦闘する部隊として1944(昭和19)年8月1日にできて終戦まであった。

 (郡中学校の現在の敷地は目測で南北約220m、東西約180mだが)この「三五二空(草薙部隊)」の全体の敷地は目測で南北約950m、東西約350mあった。誘導路や駐機場を含めれば実際の面積は、もっと広かった。町も宮小路•黒丸•沖田町と広がっていた。なお、戦前当時の三五二空(草薙部隊)」の隊舎と現在の郡中学校の校舎の並びは同じ。元々、学校創立当初は、先の隊舎が校舎(教室)として使われていた。

2)皆同町、福重地区住民センターの裏山=皆同砲台跡は小高い丘の北側部分で南北(横幅)約160m東西(縦)約70mにあった。この砲台の設置目的は、攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機を高射砲で撃ち落とすためにあった。ただし、「実際は、ほとんど当たらなかった」という。 現在、地下室(倉庫弾薬庫指揮所=会議室など)への空気や明かりの採り入れ口の上に、分厚いコンクリートなどが地上に残っていて直ぐに見れる。

3)現在の今富町や皆同町にある細長い農道、耕作地や住宅地=福重飛行場跡(当時、長さ950m幅30mの薄いコンクリート滑走路だった) 完成年は1945(昭和20)年5月27日で一番機(戦闘機)が飛んだという。現在はコンクリート製の一直線の農道(長さ約890m、幅約2.5m)がある。この福重飛行場は、戦前はほとんど使われず、戦後の測量写真撮影のプロペラ機が飛んでいたという。

4)今富町、大神宮の境内にある招魂碑(戦死した軍人、空襲で亡くなった民間人の慰霊碑である) その手前側が顕彰碑で、これに福重小学校の児童の名前もある。 (なお、この大神宮の境内には戦争遺跡とは関係ないが「石割樫(いしわりがし)」や「亀石(かめいし)」もある)

5)今富町の帯取の丘、福重砲台跡(当時、直径約200mの範囲内に高射砲の陣地があったという)。砲台の目的などは上記2)の皆同砲台を参照。現在、を示すものは、ほとんどないが一つだけ「地下室への入口」(写真9参照)があるので、見落とさないで欲しい。これは、市道から見えている。(この周辺でアメリカ軍の激しい空襲で軍人多数と福重小学校の児童も亡くなっている)

6)今富町、佐奈河内川の川床に残る誘導路橋の基礎(丸太の柱穴の残るコンクリートで今でも頑丈に残っている。大きさは長さ約30m、幅約1m) この誘導路橋の目的は福重飛行場と竹松にあった飛行場(大村海軍航空隊)との間を行き来した飛行機を通す橋(道路)で両側から行き来した場合に接触しないように、または向きを回転させるために使用されたと思われる。今まで草や川よしに隠れて1本しか見えなかったが、昨年の水害で現在は2個も見えているので今の内に見て欲しい。

 (注:竹松地区の空襲や戦争遺跡については、6日のガイダンスで、放送録画を見たので内容は省略する。なお、さらに知りたい方は、「福重ホームページ」内の「大村の空襲、戦争遺跡シリーズ(もくじ)」、大村海軍航空隊」や下原口公園内にある「掩体壕(えんたいごう)(当時の大きさは推定で高さ8m強、横幅約24.5m、奥行15m弱か?)ページなどに詳しく書いている。

まとめ
 郡地区(特に竹松・福重地区)には、軍事施設がたくさんあったので、そこをアメリカ軍が狙って攻撃(空襲)をかけてきた。もしかしたら、皆さんの曾祖父母(そうそふぼ=ひいじいちゃん、ひいばあちゃん)も経験され、さらには皆さんの住んでいる家は戦前、空襲で火災に遭い、戦後建て直された可能性だってある。まさしく「戦場は身近で、空襲は住宅地まであった」ということだ。このような犠牲者や空襲を繰り返すより、いつまでも平和であって欲しい
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<質疑応答>
 上記の講話の後、下記のような質疑応答があった。
 Q1:郷土史に興味をもった、きっかけは何か?
 A1:学生時代は、あまり歴史に興味はなかった。20年ほど前から郡地区は古い歴史があることが良く分かって、さらに調べるようになった。

 Q2:これから、どのような活動をする予定か?
 A2:これまで5冊の郷土史の冊子(本)を発行してきた。あと5冊位は作りたい。 (また、「福重ホームページ」に約20年間365日、日刊で更新し、歴史、行事、郡中学校(もくじ)のことも掲載中である)

 Q3:今までで一番驚いたことは何か?
 A3::(先ほどクイズでプレゼントした本の内容と同じだが)福重・松原に約30体ほどの古い石仏があることだった。これらの石仏の中では、日本でも珍しいのもある。また、近年、その中の石仏は、徐々に大村市指定文化財にもなってきている。

 Q4:戦争関係で、次にやりたいことは何か。
 A4:今までアメリカ(ワシントン)の公文書館に眠っていた大村の資料が、続々と日本の国立国会図書館などのインターネットで閲覧できるようになった。ただし、1回の大村空襲報告書だけでも何ページもある。しかも全部英語なので翻訳に苦労するが、今やっているところで、これを続けていきたい。

<生徒代表のお礼の挨拶>
 1年生代表から、概要次の「」内の挨拶があった。 「私は福重小学校の時、上野さんから郷土史を教えてもらった。今日も聞いて勉強になった。ありがとうございました」 

 最後に1年生全員起立して、上野へ「ありがとうございました」とのお礼の言葉もあった。 以上にて、今回の講話は、全て終了した。
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*関係ページ:10月7日の講話や10月14日の校外活動(戦争史跡巡り)と関係した事項のリンク先は、下記の通りである。なお、一部、戦争遺跡とは全く関係ない名所旧跡(めいしょきゅうせき)内容もある。なぜなら、それは、戦争史跡の直ぐ横、もしくは近くにあるので、参考までに紹介している。)

<福重地区>
 ・沖田町---第三五二空(通称「草薙部隊(くさなぎ ぶたい)(戦闘機の迎撃部隊)現・郡中学校の敷地から宮小路周辺までの敷地(写真1を参照)

 ・皆同町---<今富城跡>、皆同砲台(海軍指揮所と思われる地面上部で空襲対策のコンクリート屋根・空気採り入れ口など) 、 (皆同町側の)福重飛行場跡(使われていた当時は長さ950m幅30mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない.。「(皆同町側の)史跡説明板」あり )、  <皆同の侍の墓

 ・今富町---(今富町側の)福重飛行場跡(使われていた頃は幅30m、長さ950mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない。滑走路全体の長さで今富町側の方が約80%であった。「(今富町側の)史跡説明板がある。 佐奈河内川の川床には現在も誘導路端の橋脚を支えた丸い穴がいくつもあいた頑丈な幅約1m×長さ30m弱のコンクリート製の基礎=土台部が残っている) 、 

 <佐奈河内川の今富橋周辺は2020年の水害で大被害が遭った> 、<尾崎城跡(おさきじょうあと) 尾根部の先端所で一説では豪族の今富氏の居城で本丸から三の丸まであった城ともいわれている> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑

 <大神宮>、<亀石>、<石割樫>、招魂碑(氏名が彫られた石碑には軍人だけでなく空襲で犠牲になられた民間人の名前もある) 、<黄金山古墳> 、<今富キリシタン墓碑> <中田橋周辺の市道(通学路でもある):2020年水害時にアスファルト舗装がめくれるほどの被害が出た。この周辺の水田も被害が大きい

 今富橋(今富公民館)周辺の尾根や、字(あざ)丸山」や市道脇6つの隧道(ずいどう)などには21航空廠廠の疎開(そかい)工場倉庫があった。防空壕にしては少し大きかった。



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