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大村辞典
はじめに
もくじ
大村辞典 ”し”の項目

”し”の項目
終業式(しゅうぎょうしき)
<概略説明> 終業式とは「デジタル大辞泉」によると、次の<>内が解説されている。<学校などで、毎学期の授業を終えた際に行う式> 大村市内の小中学校の場合で現在通常ならば1学期、2学期の授業の終わる日に体育館などで終業式は開催され、3学期は修了式である。主な内容は次の (1)開会の言葉、(2)校長先生の講話、(3)夏・冬・春休みの生活指導
(長期休暇に向けての心構え)、(4)児童代表の話(各学期の反省と休みに向けての決意など)、(5)閉会の言葉などである。式直後に、その学期で例えば市内外や学校内で開催されたスポーツ大会、文科系コンクール(読書感想文、作文、音楽会など)の表彰式などもある。また、(各学期で時間は異なるが)各教室では担任の先生から、その学期の通知表(通信簿)が渡されている。先の終業式や通知表などのことは大村市内の各学校では、ほぼ共通した内容と推測される。(掲載日:2021年6月20日
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「大村歳時記シリーズ(もくじ)」の『終業式

紫雲山延命寺の標石(しうんざん えんみょうじ の ひょうせき) 所在地:現在は大村市所蔵
<概略説明>この標石は後世の建立ながら延命寺の創建(開山)年を表している金石史料といわれている。
(「九州の石塔・上巻」を参照すれば)この標石は凝灰岩で高さ60cm、六地蔵塔の基礎部を用いていると推測される。碑文は「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」と(昔の)文字が彫られており、その漢字を補足して現代語訳すると次の「」内通りである。「紫雲山延命寺の創建は、天平20年(西暦748年)8月である」 この標石は昭和35年(1960)5月に福重町(旧・矢上郷)の妙宣寺から発見された。正確には不明ながら延命寺があった現・松原3丁目(旧・松原村北木場今山)にあったのを妙宣寺へ江戸時代に運び込んだのではないかとの説もある。「紫雲山」という山号は奈良時代にはなく平安時代に付いたと言われている。それをもって開山年の疑義を主張する説もある。しかし、例えば民間企業の例で「株式会社・・・・」などと、後世に出来た形式を頭に付ける例は数多く常識である。先の根拠だけで創建年の「天平20年(748年)」までも否定できることにはならない。なお延命寺は当初、日本で最も古い宗派の法相宗だったといわれ、このことも奈良時代中期に開山したことを推測させている。(掲載日:2018年12月26日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石

授業参観(じゅぎょうさんかん)
<概略説明>
「精選版 日本国語大辞典」によると「授業参観」について、次の<>内が解説されている。<学生・児童・園児などの授業を、父母・保護者・地域住民などが直接参観すること。> 当然、大村市内の学校も先の辞典の解説通りである。ただし、その参観場所については通常の教室だけでなく、教科によって様々ある。小学校の場合、教室内で例えば国語とか算数などは、どこも同じであろう。しかし、仮に理科や音楽などの授業があれば、その専用の教室とか、花や植物などを調べる場合は屋外(校舎外)もある。また、体育の場合は(参観日、運動場は保護者の駐車場がわりに使われるため)体育館となる。なお、通常の参観はクラス別が普通だが、目的と開催時期によっては学年別(特に6年生)もあり、一例として地域へのプレゼンテーションをするとか、保護者への感謝会なども兼ねて授業参観が実施される場合もある。なお、保護者が参観する時、いつも以上に児童が張り切ったように挙手したり発言する姿は良い光景でもある。(掲載日:2022年9月7日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)
2020年1月31日、福重小学校6年生の「町の幸福論」発表会の授業参観」 「2022年4月27日、福重小学校、授業参観(屋外授業もあり)」 「2022年6月30日、福重小学校、授業参観」 「2022年9月1日、福重小学校、授業参観

修了式(しゅうりょうしき)
<概略説明>デジタル大辞泉には「修了証書とは、学校では
(一般解釈で)各学年で定まった教育課程を終えたことを証明するもの」と解説されている。そのことから「修了式とは、その修了証書を授与する式」である。その式の内容について、大村市内の各小学校では各校で少し違いがあることを推測している。その中の一例として福重小学校においては次の項目が主な内容=式次第(しきしだい)である。 (1) 開会のことば (2) 修了証書の授与 (3) 校長の講話 (4) 児童代表の言葉 (5) 校歌斉唱 (6) 閉会のことば 以上までが修了式の主な内容である。なお、(2) 修了証書の授与は1~5年生の各学年代表の児童へ、通常ならば体育館の舞台で授与されてる。あと、修了式の直後から春休みの過ごし方について生活指導の先生よりスクリーンなどを使っての話もある。(掲載日:2022年3月12日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「大村歳時記」の『修了式

常徳寺跡(じょうとくじあと) 所在地:大村市草場町<字「関庵(せきあん)」>
<概略説明> この『常徳寺跡』の場所は大村市草場町、字
(あざ)「関庵(せきあん)」にある「常徳」と呼ばれている所と地元で言われてきた。この字(あざ)「関庵」は国道34号線から草場町へ向かう場合、市道を登ると新幹線の橋脚周辺にある字「如法寺(にょほうじ)」の次にある。江戸時代の(大村)郷村記の記述は寺院名称と郷(町)名のみで詳細説明などはない。大村藩領絵図にも描かれていない。以上のように寺跡について地名などに関連はあるようだが基礎的史料(資料)が、ほぼないに等しい(掲載日:2018年2月13日
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「名所旧跡」の『常徳寺跡

城の尾城(じょうのおじょう) 所在地:大村市東大村町<字「鶏首(けくび)」>
<概略説明>城跡全体(建物などはないが)主郭、副郭、曲輪、登城路、竪堀などがあった跡が、ほぼ当時のまま残っている。さらに飛礫(つぶて)用の石も現存している。これらからして戦国時代の戦闘状態そのままと言っても過言ではない。大村市内に他に類例のない城形式である。保存状態も良く、長崎県内と大村市内では極めて特徴のある城跡と言える。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『城の尾城

城山城(じょうやまじょう) 所在地:大村市今村町
<概略説明>城山城の遺構として主郭、副郭、竪堀、帯曲輪、切岸などが長年の風雨による一部の崩れを除けば戦国時代当時と大きくは変わらずに現存している。ただし、石垣や階段などはない。当時の遺構をとどめた城としては大村市内で城の尾城とともに、けっこう貴重ともいえる。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『城山城

昭和37(1962)年の大村水害  所在地:大村市内
<概略説明>この水害は記録が明確に残っている戦後からと限定すれば、「昭和32(1957)年の大村大水害」のように犠牲者(19名)は出なかったが、「2020(令和2)年7月6日の大村水害」と同規模もしくは準ずる位の大きな被害があった。当時の雨量は、24時間雨量で209.0ミリ、1時間雨量で79.5ミリであった。その被害状況は(1962年7月15日発行の『大村市政だより(号外)』から引用すると次の「」内通り)  「災害概況は土木関係として 郡川、大上戸川、内田川、鈴田川、南川内川、佐奈川内川、その他各河川の護岸の欠壊、橋梁流失、道路の損壊などの災害見積額は一億六千三百万 円余、農林関係は農地、農道の損壊、農産物の冠水による被害その他で二億五千五百万円余、商工水産関係は千三百万円余その他を含めて合計五億二千七百万円余で、これらの損害額は七月十二日現在であり、今後調査が進むにつれて、さらに増加する見込みである。家屋の全、半かい十戸、床上浸水八百六十六世帯、床下浸水二千六百四十六世帯である」 補足•参照:この水害は先に記述した「1952年」や「2020年」の両水害ほど現在では大村市内では語られてないが、各河川近くを中心に被害は大きかった。また3回とも同じ河川の同じ場所の護岸が決壊している所も多い。(掲載日:2024年8月18日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)昭和37(1962)年の大村水害」 「昭和32(1957)の大村大水害」 「2020年7月6日の大村水害

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鹿大明神(しかだいみょうじん) 所在地:大村市沖田町(下沖田集会所の中)
<概略説明> この鹿大明神は下沖田集会所の中で祀られている。由緒については江戸時代の(大村)郷村記や地元伝承などに様々ある。その中には「昔、鹿大明神が海から来る夢を見た人がいた。海岸に行ってみたら沖の方から鹿の角が二本入ったそうけ(竹のかご)が流れて来た。それを持ち帰って祀ったのが始まり」との説もある。 そのほかにも、昔「郡川で煙管(キセル)入れみたいな物に入った小さな仏様が拾われた」と言う説がある。それが「鹿大明神」と書かれた石祠に祀ってある仏様ではないかとも言われている。ご神体が鹿なので、昔、沖田では犬を飼わないことになっていた。この社は現在、下沖田地域の人たちによって祀られている。 
(掲載日:2017年5月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)(福重の名所旧跡と地形)鹿大明神』、『(史跡説明板)鹿大明神

鹿島(しかのしま) 所在地:大村市松原2丁目
<概略説明> 鹿島は大村市内の島
では、最北部に位置している。島の周囲は250m弱くらいの、そう大きな島ではないが、近景も遠望も良くて、風光明媚な島である。江戸時代に作成された大村藩領絵図には、「久津嶋」とも書いてある。近代になり埋め立てにより島へは陸続きで歩いて渡れる。島内には弁財天(弁天様がある。 (掲載日:2011年9月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『鹿島

始業式(しぎょうしき) 
<概略説明> 始業式とは「デジタル大辞泉」によると、次の<>内が解説されている。<学校などで、毎学期の授業の始めに行う式。> 大村市立の小中学校では通常ならば始業式の開催場所は各校の体育館で、1・2・3学期の最初の日に開催されている。その式内容は、福重小学校の1学期の始業式の場合、次の<>内通りである。<1)開式のことば、2)校長先生のお話、3)担任の先生の紹介、4)児童代表のことば、5)校歌斉唱、6)閉式のことば> ここからは、ご参考までに同校の場合、始業式直後に各学期前の春休み・夏休み・冬休みの各期間中に、例えば作文・読書・書道などのコンクールや市内でのスポーツ大会での優勝・入賞者の表彰式や紹介などもおこなわれている。(掲載日:2021年6月6日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「大村歳時記(もくじ)」の『始業式

詩吟「二十一空廠殉職者に捧ぐ」
<概略説明> この詩文作成者は(故)山口岩市氏(21航空廠当時の技官だった方)である。初披露は1963年(昭和38年)10月25日と推定される。この日は21航空廠の慰霊塔が完成し、殉職者への慰霊祭が挙行されたといわれている。その場所は(現在の)第21航空廠慰霊塔<慰霊塔公園(大村市松並2丁目857)>である。詩文の筆文字清書は江崎富義氏(日本書道 西大村支部長)である。詩文内容は、その詩吟名の通り戦前、大村市内にあった21航空廠(航空機製造工場)で空襲により殉職された方々への慰霊の追悼文である。作成者は当時、働いていた方が作詞された内容なので、その苛烈な状況や悲しみの深さを表現されていていることから、戦前や空襲の状況を今に伝える資料も少ないゆえに、それらを生々しく物語っている価値観もあるといえる。(掲載日:2022年2月6日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)詩吟「二十一空廠殉職者に捧ぐ」 「第二十一航空廠

準備中


重井田の馬頭観音(しげいだ の ばとうかんのん) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> この馬頭観音について、江戸時代の(大村)郷村記を参照し現代語訳すると、次の「」通りである。「神体(仏像)はなし。例祭は(毎年)10月29日に妙宣寺に来てもらって、山道茂助がが一人で祭っている。石祠は文化14年(1817)ひのとうし10月に茂助の父・(山道)源次兵衛が神仏に心から願って建立した」 あと、石祠の奥の方に「馬頭観音」と彫られた文字塔である。この石祠の大きさは高さ65cm、横幅26cm、胴囲90cmである。 この馬頭観音の下部に目測で約1.5m四方の石垣があり、さらにその下部に横幅約5m、高さ約1.5mの大きな石がある。(掲載日:2021年5月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田の馬頭観音

重井田橋(しげいだばし) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> (現在の)重井田橋の竣工は1971(昭和46)年6月である。その長さは13.00m、幅は4.80mで、市道名の河内重井田線にある。(ただし、竣工当時の道路名は銘板には「新福重線」となっているが、現在は河内重井田線である) この橋は郡岳(こおりだけ、826m)山中を源流とする佐奈河内川(さながわちがわ、長さ2.924km)の上部に架けられている。 この橋の下流側150m位に「重井田の天狗伝説」の『天狗の足跡石(頭部が真っ平でタタミ8畳以上あるため別名「八枚敷き」(はちめじき:大村弁)と呼ばれている)があり、また右岸側の字(あざ)に「天狗通(てんぐとうし)」という地名もある(掲載日:2018年10月21日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田橋

重井田浮立(しげいだ ふりゅう) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> この浮立は口伝によると明治の頃、諫早出身の指方金四郎氏によって大渡野浮立が伝えられた。その後、掛打ち踊りは中岳浮立を学んだ。浮立で用いる鉦(かね)の刻印名には「大正捨三年」(1924年)、大太鼓には「明治30年」(1897年)の銘がある。現存する最古の重井田浮立写真と思われる福重小学校・重井田分教場(分校)の校舎完成祝いで踊られた1928(昭和4)年春頃のものがある。この浮立はかつて福重地区敬老会を始め大村市内での祝祭行事などで興じられてきた。浮立の形態は掛打ち、綾竹、大太鼓(月ノ輪)からなる複合の浮立である。大太鼓打ちには独特の技を持つ浮立である。浮立の順番は幟(旗)-ササラ-掛打ち-綾竹-大太鼓(月ノ輪)-モラシ-鉦の順番に道踊りで入場し演技された。構成は道行き-庭入り-場打ちから成っている。(掲載:2017年8月17日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田浮立

重井田町の天狗伝説(しげいだまち の てんぐでんせつ) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> この天狗伝説と関係しているのは字(あざ)の「天狗通し(てんぐとおし)」と「赤岩(あかいわ=天狗が怪我して血で赤く染まった岩などから由来)」、さらに大きい岩(石)である「天狗の飛び立ち石」、「赤岩(あかいわ)」、(天狗が休憩した)「天狗の足跡石(てんぐのあしあといし)」、(天狗が最後に乗った)「天狗岩(てんぐいわ、現在は宗教施設)の2つの地名と4か所の岩である。この伝承話は二つの地名の由来になるくらい古いので「長崎県内で最古の民話」ではないかともいわれている。天狗伝説の起こる背景として同町内にある郡岳(こおりだけ、826m)は奈良時代に創建された太郎岳大権現があり、その修行場と言われてきた御手水の滝(通称:裏見の滝)があり、さらに同町は森林に囲まれているためであろう。 
(掲載日:2016年11月16日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田町の天狗伝説』 、 『創作童話 てんぐになった福ちゃん 、 『英語版?てんぐになった福ちゃん』 、 『太郎岳大権現』 、 『郡岳(こおりだけ、826m)』  、 『御手水の滝(通称:裏見の滝)

清水の線刻石仏(しみずのせんこくせきぶつ) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 清水の線刻石仏は、その名称通り弥勒寺町の字(あざ)「清水」にある。そこは弥勒寺町公民館から東側へ約200m行った雑木林(竹林)の中にある高さ2m90cm、横幅16m70cmの岩壁である。その岩壁に高さ74cm、横幅56cmの大きさで仏(線刻模様)が彫ってある。年代は諸説あるが中世時代と推測される。線刻模様の主な特徴として納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿形で、光背(こうはい)と蓮華座(れんげざ)の模様線はない。この姿形は福重地区にある合計13体の線刻石仏の模様と基本は同じである。推測ではあるが、この線刻模様はいずれも神仏習合像か神像を表したものと言われている。
(掲載日:2015年11月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)清水の線刻石仏

下八龍の線刻石仏(しもはちりゅうのせんこくいしぼとけ) 所在地:大村市弥勒寺町、シュシュ駐車場脇
<概略説明> この下八龍の線刻石仏(元あった場所が字「下八龍」)は、弥勒寺町、シュシュの駐車場の横にある。最初の場所は、この地点ではなく違う場所だったが、シュシュのオープン時に、ここに移設された。石全体の大きさは、高さ約130cm、幅約220cm。 仏様の高さは約63cm、幅は約52cmである。 
(掲載日:2008年8月1日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「仏の里福重ページ」の『下八龍の線刻石仏

正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(しょうれんじあと) 所在地:大村市寿古町(民家周辺)
<概略説明> この正蓮寺(聖蓮寺)の創建は不明である。江戸時代の大村郷村記によれば寺院名称は「聖蓮寺」となっている。(現在は「正蓮寺」と呼ばれている)また場所は「長松」で、寺領は四石九斗九桝四合と書いてある。基礎的な古記録や伝承も少ないため詳細が分かりにくい仏教寺院跡である。 (掲載日:2016年12月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)正蓮寺跡(聖蓮寺跡)

銃後の郷土(じゅうごのきょうど)=1941年(昭和16年)作成の福重村写真集
<概略説明> 1941(昭和16)年11月頃に当時の福重村で写真集が作成された。この写真の目的は戦地にいる同村出身の兵隊へ送る慰問袋に入れるためだった。大きさはA5版(横22cm、縦15cm)で厚さ5mm。ページ数は表紙含めて全体で48ページである。この中には例えば村議会、村役場、警防団(消防団)、福重国民学校(福重小学校)を始め各郷(町)の軍人家族、国防婦人会、青年団の集合写真がある。さらには当時の風景や歳時記などの写真も収められている。現在において、これだけの枚数とまとまった状態で戦前の状況を伝えている写真集があること自体、珍しく貴重との評価もある。福重地区では数冊が現存していると言われているが1冊を除き確認できていない。戦後しばらくしてから復刻版が作成されたと言われているが残存数や詳細は不明である。なおデジタル複写版として上野が保存し全写真と、その説明文を下記HPに掲載している。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『銃後の郷土もくじ』、『銃後の郷土はじめに

十二社権現跡(じゅうにしゃごんげんあと) 所在地:大村市今富町、字「橋口」
<概略説明> この十二社権現は江戸時代の大村郷村記に記述され、大村藩領絵図には文字名称で図示されている。その図示された場所は字(あざ)「橋口」にある民家もしくはその東側周辺と思われる。創建は不明である。大村郷村記によれば昔から権現跡と言われてきた所に正保年間(1644年~1648年)に再興(再建)された。 神殿は奥行4尺(約1.2m)に、横幅5尺(約1.5m)の瓦屋根(かわらやね)、拝殿は2間(約3.6m)四方、石の鳥居が2基あった。境内の広さは奥行7間(約12.7m)に横幅19間(約34.4m)であった。この十二社権現の境内で1617年(元和3)、キリシタン宣教師2名が殺害(大村初の殉教)された。これを一般には「帯取殉教」と呼ばれているが字名も違うし現在、大神宮の参道入口近くにある「帯取殉教地跡(記念碑)」は実際の十二社権現跡と350m近くも離れた全く間違い場所に建てられている。  (掲載日:2016年12月29日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)十二社権現跡』<(本当の)「帯取殉教地跡」>

白馬様(しらうまさま) 所在地:大村市福重町、福重小学校
<概略説明>
 (注:先に掲載中の”ふ”項目の「福重小学校にある白馬さま」と、この項目はほぼ同内容である。今回諸事情で、この”し”項目にも掲載の必要があったので説明文を大幅に増やし再編集して載せている)
  この白馬様は教職員と児童の守り神様である。現在地は福重小学校の敷地内(本館校舎の北東側の小高い所)にある。ただし、元々は福重小学校が現在地に移転する前の皆同郷(町)の「城の前」当時の学校敷地内にあった。裏側に彫られた碑文を補足含めて現代語訳すると次の「」内通りである。「(皆同郷「城の前」に校舎を新築した)明治二十六(1887)年、本校(福重小学校)敷地というのは古戦場跡地(だったので、その地)を地ならし(整地)した時に無縁仏があったので、(それ以降は無縁仏を)教職員と児童の守護神 (守り神様)として祀っている。紀元二六〇一年 昭和一六(1941)年一月」 石祠本体の大きさは高さ約68cm 、横幅約40cm 、周囲約160cmである。なお、毎年1月には福重小学校・福重幼稚園の教職員、福重小PTA、福重地区町内会長会などの役員や関係者が参列して「白馬様の祀り」が開催されている。なお、学校内に教職員と児童の守り神様があるのは全国的にも珍しいといわれている。  (掲載日:2020年11月24日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「石塔・記念碑シリーズ」の『白馬様』、大村の史跡説明板シリーズ」の『白馬様』、「大村歳時記シリーズ」の『白馬様の祀り

白鳥城跡(しらとりじょうあと) 所在地:大村市岩松町
<概略説明>白鳥城跡の場所は大村市立鈴田小学校近くを流れる鈴田川の北西側にある丘陵(尾根の先端部)にあった。現在、その場所は住宅団地及び高速道路(長崎自動車道)の高架下側あるいは高い橋脚の間付近である。白鳥城の遺構について江戸時代の(大村)郷村記には(現代語訳で)「周囲7町程(約764m)、高さ30間程(約55m)、上の広さは1反1畝程(約1,091㎡)、背後に横3間(約5.5m)・深さ2間程(約3.6m)の堀切り3カ所がある」と記述されている。しかし、現在は住宅地などになっているため何もない。この城の下側付近は東西とも断崖絶壁で、さらに東側に鈴田川の本流、西側には鈴田川の支流になる白鳥川がある。このような自然の地形により難攻不落の城だったと思われる。現在、高速道路の橋脚下で市道脇に2017年3月31日に設置された史跡説明板があり、白鳥城跡周辺を示す目印になっている。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『白鳥城』、「大村の史跡説明板シリーズ」の『白鳥城跡(しらとりじょうあと)

次郎坊岩(じろうぼういわ) 所在地:郡岳・西口登山コース周辺
<概略説明>この岩の場所は郡岳・西口登山コース周辺にある。しかし、大村市重井田町側にあるのか東彼杵町側か位置が微妙である。同じ郡岳にあり江戸時代の(大村)郷村記にも記述がある巨大な坊岩'ぼうのいわ)ほど有名ではない。この次郎坊岩の大きさは目算ながら高さ約8m、横幅約10mある。なお、朽ちかけた金属製プレート案内板を参照すると、この岩以外にも三郎坊岩も近くにあるようだ。そのようなことから、どれが次郎坊岩か、または三郎坊岩なのか分かりづらい。郡岳には人の高さ位ある大きな石や岩はいくらでもあるが、この次郎坊岩は相当大きいのには間違いない。  (掲載日:2019年1月9日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)(郡岳の)次郎坊岩

新城(しんじょう) 所在地:大村市杭出津1丁目
<概略説明>
新城の場所は現在のJAながさき県央・大村中央支店周辺と言われている。江戸時代の古記録(大村)郷村記には杭出津砦として記述されていて、それには「大手は巽(北東)の方、搦手は戌(北西)の方 に向き、郭内300坪(約990平方メートル)、天正3年(1575)に大村純忠が構えた」とある。当初、海側からの敵襲に備えて築城を開始したが、途中で適さないとの判断から建設を中止した。その後、その場所には家臣が代々住んだようだ。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『新城

--準備中--

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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